そんな、日常 |
トン、トン、トン。 階段を駆け上がる音が響く。 トン、トン、トン。 弾んだ足音が、扉を開いた。 「あ、柚木先輩!」 弾んだ声が屋上に響き渡る。それを背中で受けた柚木は、髪越しに視線をそちらへ向ける。 「……お前か」 「ふふ〜、今日もちゃんと見つけましたよ」 満面に笑みを浮かべて香穂子が走り寄ってくる。まるで子犬みたいな所作だ。 柚木は彼女に向き直って、その様子を見つめた。 「まあ、早かったな。広場中を駆け回っていたにしては」 香穂子の顔が赤くなる。 「さては、ここからずっと見てましたね。意地が悪いんだから」 スカートを翻して走り回っていた自分の姿を思い返し、香穂子はますます赤面してしまう。抗議をこめて睨んでみたものの、迫力はまったくなかった。 「少し目線を上げれば俺が見えたのに、気付かないお前もどうかしている」 「うっ」 香穂子が言葉を詰まらせる。結局、口でも柚木には勝てない。いつも言いくるめられてしまう。 「いいですよ、もう」 香穂子はため息混じりにそう言い、向こうを向いてしまった。またずいぶんと子どもっぽい拗ね方をするものだと、柚木は苦笑した。 けれど、不快な感情ではない。 おかしなものだと思う。 半年前までは、彼女の存在すら知らなかった。なのに、今では当たり前のように側にいる。それがとても自然で、構えないでいられる。 柚木は香穂子の方に指を伸ばした。 彼女の髪が風に揺れ、柚木の指先に絡む。 そのくすぐったい感覚が、柚木の心も撫で上げていく。 拗ねた後ろ姿が、彼の心を揺らす。 柚木はまた苦笑した。 彼女といると、本当に調子が狂う。 本来なら、彼の人生に彼女の居場所などないはずだった。 今まで、柚木にとって、他人とは完璧な人生のために関わる必要のある人間、必要のない人間、それしかいなかった。 彼女は必要のない人間。なのに、他の予定を後回しにしても、もう少しこうして話していたいと思ってしまう。 無防備な背中を抱きしめたいと思ってしまう。 「……俺も、単なる俗な男のひとりだったということか」 柚木は呟くと、腕を伸ばして、香穂子の肩を抱いた。 引き寄せられた香穂子が慌てた声を上げる。 「わ、わ、先輩っ、こんなところで」 「誰も見ていないさ。この俺がそんな不用意なことするはずないだろう?」 「そうかもしれませんけど…」 香穂子はしばらく身じろぎしていたが、柚木が飄々としているのを見て、暴れるのをやめた。 「柚木先輩はもう〜……」 「そういえば、それ」 「え?」 香穂子がきょとんとしていると、柚木が指に髪を絡めて引っ張る。 「名前。いつまで名字で呼ぶつもりなのかな、香穂子?」 「あ……」 香穂子が目を泳がせる。 「なに目をそらしてるんだ?」 「いや、その……」 香穂子がさらに目をそらす。 たかが名前、されど名前。先日めでたく知り合いから恋人に昇格したのだから、下の名前で呼んでいいと言われたことがある。が、なんだか気恥ずかしいのだ。 「まさか、俺の名前を知らないとか?」 「そ、そんなわけないですよっ」 「じゃあ言えるよな?」 「うっ…」 香穂子の顔に『しまった』という表情が浮かぶ。さらに柚木は追い打ちをかけるように言った。 「言えなかったらおしおき。言えたら、ご褒美をあげるよ」 「それって、お、同じじゃないですか〜〜??」 香穂子はほっぺを引きつらせ、柚木から離れようとする。だが、彼はがっちり香穂子の肩を引き寄せたまま離してくれない。どうやら今日はごまかせそうにない。 それにしても、楽しそうに笑うその顔が実に憎らしい。 香穂子はひとつため息をついて、柚木を見上げた。 「分かりましたよう…。あ……梓馬先輩」 香穂子がそう呼んだ瞬間、ふわりと柚木の髪が香穂子の頬にかかった。 「ん……」 柔らかな感触がかすめるように唇に触れ、すぐに離れる。 香穂子がはっとした時には、もう柚木の顔は離れていた。 「はい、ご褒美」 「〜〜〜〜〜〜……っ」 抗議しようとした言葉は出てこない。珍しく心から優しげな柚木の笑顔に封じられてしまった。 代わりに香穂子は横を向いて、背中を柚木の背にくっつける。柚木は小さく笑って、その重みを受け止めた。 そんな、日常。
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予定通りに生きてきた柚木が、香穂子に会ってから
予定が狂いっぱなしというのがツボですね〜。
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