With You


 「さあ、着いたよ」
 照りつける夏の熱い陽射しの下、一組の男女が、蒸気タクシーから降り立った。
 「やあ、ちっとも変わってないなあ、ここは」
 そう言って、彼ー大神 一郎は、なつかしそうに辺りを見回した。
 潮の香りのする風と、老舗の威厳を感じさせる建物 「剣緑園」。
 「ええ、そうですね。一郎さん」
 微笑みながら、女が男の隣に並ぶ。
 彼女は、昨日、大神夫人となったばかりの女性、旧名マリア・タチバナである。
 「また、こんないい旅館に泊まれるなんてね。米田支配人に感謝しないと」
 彼らにこの旅行をプレゼントしてくれた上司の顔を思い浮かべ、大神が微笑む。
 「ええ。帰りに、何かお土産を買っていきましょう。他のみんなにも」
 「そうだね。それじゃ中に入ろうか」
 二人が歩き出す。互いに、互いにしか見せない極上の笑みを浮かべて。
 何しろ、数年の長い月日を経て、結ばれた二人である。
 今の彼らの心は幸福に包まれ(まさしくスミエールヌィ・ターニェツ!)、目に入るもの全てが光り輝いて見えた。

 「・・・・きれい・・・・」
 不意にマリアが立ち止まる。大神が振り返ってみると、彼女の視線の先には、光と風を受けて輝く欅の木があった。
 「ああ、ケヤキだね」
 「葉が太陽の光を反射して、あんなに輝いている。・・・眩しいくらい」
 そう言って、マリアはうっとりと微笑む。マリアの笑顔も負けないくらい眩しいと、大神は思ったが、さすがに照れくさくて、口に出すのはやめた。
 代わりに、ぽつりと呟く。
 「きっと、生命力の輝きだね」
 何気なく言った一言だったが、マリアは、はっとしたように大神を見た。
 「・・・・ええ、そうですね。精一杯、生きようとしているからこそ、あの木は、あんなにも光り輝いて見えるんですね」
 感慨深げに呟くマリアに、大神は微笑むと、彼女の肩に手をかけて言った。
 「ああ。生きようとする意志は、何よりも貴い。昔、強大な敵の前に、くじけそうになっていた俺に、「一緒に生きて帰ろう」 と言ってくれた君は・・・・、俺の目には、あの木と同じように光り輝いて見えた」
 「一郎さん・・・・」
 マリアが、かあっと赤くなる。大神ははにかんだように笑うと、旅館の中へと、マリアを促した。

 「いらっしゃいませ。また、いらしてくださってありがとうございます」
 中に入ると、前に来たときと同じく、女将が、二人を出迎えてくれた。
 「お世話になります。覚えていてくれたんですね」
 「ええ、皆さん、目立つ方々ばかりでしたからねえ。とても賑やかで・・・、でも、今日はお二人だけなんですね」
 そう言って、女将が二人を見比べる。二人が赤くなると、彼女は笑いながら、部屋へと案内してくれた。
 「こちらのお部屋です。ご結婚の記念の旅行と伺いましたので、当旅館で、一番良い部屋をご用意させていただきました」
 「うわあ、本当だ」
 部屋の中を、一目見るなり、大神が、はしゃいだ声をあげる。
 その部屋は、一番良いというだけあって、二人には十分すぎるほど広く、畳も青々としており、床の間には、水墨画の掛け軸が飾ってあった。だが、何より大神の目をひいたのは、窓の外いっぱいに広がる海の景色だった。
 思わず、荷物を放り投げて、窓辺に駆け寄ってしまう。
 「きれいだなあ。マリアも、こっちに来て、見てごらんよ」
 海軍出身なのだから、海など見慣れているだろうに、子供のようにはしゃぐ夫の姿に、マリアはついつい笑ってしまう。
 「気に入っていただけましたか? それはようございました。海が一番良く見える部屋も、この部屋ですからね」
 「ありがとうございます。こんないい部屋を用意してくださって・・・・」
 マリアが女将に礼を言うと、彼女はとんでもない、というように首を振った。
 「お礼なんていいんですよ。大将のお知り合いの頼みですからね。
 それでは、私は失礼しますから、どうぞ、ごゆっくりなさってください」
 女将が出て行く。その背を見送った後、マリアは、バッグを開けて、荷物の整理を始めた。
 「一郎さん。景色はいつでも見られるんですから、先に荷物を整理してしまいましょう」
 「え? う、うん」
 呼ばれて、大神は名残惜しそうだったが、窓辺から離れ、マリアの隣で、自分の荷物を整理しはじめた。
 「ふふ、残念そうですね。私なんて目に入らないくらい、夢中でしたものね」
 マリアがからかうように言うと、大神は慌てて言い訳をはじめた。
 「いっ、いや、そんな事ないよっ。俺がマリアのことを忘れるはずないじゃないかっ。そうじゃなくて、景色があんまりきれいだったから・・・、・・・・マリア、怒ってるのかい?」
 心配そうに自分を覗き込んでくる大神の姿に、マリアは吹き出してしまった。
 「冗談ですよ。怒ってなんていません。一郎さんは、本当に海がお好きなんですね」
 「う、うん。そうだ、それよりマリア。これからどうしようか?」
 まだ、時間は一時を過ぎたばかり。このまま宿でくつろいでいるには、少々、時間が余りすぎる。
 「温泉にでも入る? それとも、さっそく海に行こうか?」
 大神が、にこにこと笑いながら尋ねる。それに対して、マリアの表情に、かすかに緊張が走った。
 「う、海ですか。そうですね、一緒に泳いでくださいってお願いしてましたね」
 普通に声を出したつもりだったが、やはり少し上ずってしまったらしい。大神が、心配そうにマリアの顔を覗き込む。
 「やっぱり、海はまだ無理かい?」
 「いいえっ!」
 反射的に、マリアはそう答えた。
 「・・・いいえ、大丈夫です。あの後、ずっと帝劇のプールで練習してましたから。だいぶ、上達したんですよ」
 それは本当だった。以前、海水に閉じ込められて以来、マリアは泳力の必要性を痛感し、カンナ、レニなどに教えてもらって、人並みには泳げるようになっていた。今度の旅行にも、水着はきちんと持ってきている。
 だが、しかし。以前、この海でおぼれたことを思うと、少しためらってしまうのだった。
 「本当かい?」
 「ええ。少し不安になってしまいましたけど・・・。
 でも! そうです、今の私は泳げるようになったんですから、大丈夫です。行きましょう、海へ」
 マリアが気を取り直して、にっこりと笑う。それを見て、大神も、ほっとしたように微笑んだ。
 「そう。それじゃ、行こうか。良かった。やっぱり、海に来たからには泳ぎたいしね。それに・・・・」
 マリアの水着姿も楽しみだし。そう続けようとして、大神は慌てて言葉を呑み込んだ。あまり、露骨なことを言うと、怒ってしまうかもしれない。
 「それに・・・・、何ですか?」
 マリアが、不審そうに聞いてくる。
 「い、いや・・・・。そうだ! それに、今日はいい天気だし! 部屋の中にいるのは勿体無いよ」
 ははっと、笑ってごまかしつつ、大神は海に行く準備をはじめた。マリアは、首を傾げつつも、それ以上は追求せず、自分も準備を始めた。

 「おまたせしました」
 浜辺でマリアを待っていた大神は、更衣室から出てきたマリアを見て、一瞬、言葉を失った。
 紫がかった白のワンピースの水着に身を包み、マリアは、恥ずかしそうに口元に手を当てて、立っていた。
 すんなりと伸びた白い手足。くっきりと谷間が刻まれるほどに豊かな胸。柔らかそうな肌。
 甲斐性なしの大神は、こんなに露出したマリアの体を見るのは、初めてで、その余りの美しさに、くらくらと目眩がした。
 「あ、あのっ・・・・、そんなにじっと見ないでください」
 大神の視線が、自分の身体に注がれているのを感じ、マリアは体をよじった。
 すると、普通にたっていたときよりも、体のラインがくっきりと見えて、大神は、その場でマリアを抱きしめたいという衝動を必死に抑えた。
 (い、いかん・・・・。そんなことしたら、確実にマリアに嫌われる。それは今夜まで・・・。今夜・・・・。)
 今夜。それは大神とマリアにとって、実質的に新婚一日目の夜(昨夜は、夜を徹しての宴会で、それどころではなかった)。つまり、初夜! なのである。
 (うわああ! ますます、興奮してきた!)
 「そっ、それじゃ。マリア、お、泳ごうかっ!」
 このままでは、本当にまずい。そう判断した大神は、一人、先に海の中へと入っていった。
 「あっ、待ってください」
 大神の内心の葛藤など気づいていないマリアは、慌てて大神の後を追いかけた。

 「・・・・・・・・・・・・」
 大神を追いかけて、海に入ったマリアは、しかし、二、三歩水に足を踏み入れたところで、足を止めた。
 「マリア・・・・」
 冷たい海水に体を浸して、少し頭の冷えた大神が、それに気付き、マリアを振り返った。
 「マリア!」
 声をかけると、マリアは心配顔の大神に気づき、安心させるように笑いかけた。
 「一郎さん、今から、そっちに行きますね!」
 そのまま、ざぶざぶと海の中へ入っていく。腰の辺りまでつかったところで、手かきも使って、前へと進んでいく。
 (ほら、大丈夫。波も大したこと無いし、後は、練習どおりに体を浮かせて、膝を曲げないように、バタ足をすれば・・・・)
 順調に前へ進めていることに、マリアが安心していると、突然、マリアの足元から、地面が無くなった。
 海で泳いだ人ならわかると思うが、海というものは、浅いかと思うと、突然深くなったりするものである。そして、足が着かなくなったとたん、波の力は数倍になって襲いかかってくるのである。
 「えっ・・・・?」
 マリアが地面が深くなっているところに足を踏み入れたとたん、少し高めの波が、マリアの頭上に襲いかかった。
 「・・・・っ!」
 バランスを崩し、マリアの体が海中に沈む。思わず開いた口から、大量の海水が流れ込み、マリアの喉が詰まる。
 「・・・・んう・・・・っ!」
 何とか頭を水面から出そうと、マリアは滅茶苦茶に手足を動かした。こうなると、もう泳ぐどころの騒ぎではない。すっかりパニック状態に陥っている。
 そのマリアの体を、波は容赦なくさらっていく。
 「んんん・・・・っ!」
 マリアが苦しげに呻く。既に、かなりの量の水を飲んでいた。
 (く、苦しい・・・・。私、ここで死ぬの? いや! 一郎さん!)
 「マリア!」
 大神が、血相を変えて飛んでくる。
 「マリア、大丈夫か!?」
 さすが海軍出身。数秒でマリアの所にたどり着き、彼女を引き上げる。
 「ん・・・・、ゴホッ、ゴホッ・・・・!」
 「マリア、しっかり!」
 浅い所に泳いでいきながら、大神はマリアの頬を叩く。
 引き上げられても、マリアは混乱の余り、しばらくその事に気付かなかったが、頬の痛みと、自分を引っ張ってくれる力強い腕の感触に、次第に落ち着きを取り戻していった。
 「あ・・・・」
 「マリア、ここなら、もう足が着くよ。立てるかい?」
 「あ、は、はい・・・・」
 マリアが、ようやく手足を掻くのをやめ、なんとか体勢を立て直す。
 「わ、私・・・・」
 「大丈夫かい? 深い所に踏み込んじゃったんだね」
 マリアが顔を上げると、大神の笑顔がそこにあった。マリアの体から、力が抜ける。
 「・・・・また、助けて下さったんですね」
 マリアがかすかに頬を赤らめて、うつめく。
 自分を引っ張ってくれる暖かい手。そして、目を開けたとき、そこにある優しい笑顔。
 あの時と全く同じだった。
 「いや、助けるというほどの事はしてないよ。それより、気分はどう?」
 「え、ええ、少し水を飲んでしまいましたけど、もう平気・・・・」
 です、と続けようとしたとたん、高波がマリアを背後から襲った。
 「きゃああああ!」
 マリアが悲鳴をあげて、大神の首にしがみつく。
 しかし、波が襲ったといっても、要は、頭から海水をかぶっただけのことである。それだけのことだったのだが、先ほどの恐怖が、頭から完全に消えておらず、もう大丈夫だと安心しきっていたマリアには、再び海中に引きずり込まれたような錯覚を起こさせた。
 「マ、マリアッ・・・・!」
 渾身の力で首に抱きつかれ、大神の息が詰まる。
 (く、苦しい・・・・! ・・・・でも、気持ちいい・・・・)
 首を締められると同時に、豊かな胸をぎゅっと押し付けられて、思わず大神の表情が緩む。(この男は!)
 (・・・・いや! それどころじゃない。とにかくマリアを落ち着かせないと!)
 やっと気付いたか、ばか者。
 「マリア、大丈夫だよ。ちょっと海水がかかっただけだ、落ち着いて!」
 必死に叫ぶが、混乱したマリアの耳には届かない。
 (だ、駄目か・・・・。そうだ!マリアにはあの手が効くかも!)
 大神はマリアをぎゅっと抱きしめ、耳元で囁いた。
 「マリア、胸が当たってるよ」
 「!!」
 マリアが、一瞬にして我に返り、がばっと両腕を解く。
 「ふう。やっと落ち着いてくれたね。本当に窒息するかと思った」
 大神が喉を押さえながら言うと、マリアははっと、目を見開いた。
 「あ、す、すいません。わたし・・・・」
 「いや、いいよ。それより、浜にあがろうか」
 大神の提案に、マリアはほっとした表情になった後、すぐに顔を伏せた。
 「すみません・・・・。泳ぐの、楽しみにしてらしたんでしょう?」
 「いや、実は、アイリスに頼まれてたんだ。海に行ったら、きれいな貝殻をいっぱい拾ってきてほしいって。マリアも手伝ってくれよ。
 とってつけたような大神の言葉に、マリアは顔を上げて、幸せそうに微笑んだ。
 「・・・・はい、一郎さん」


 二人は、結局、その後海には入らず、宿に戻った。
 宿では、心尽くしの豪勢な料理が用意されており、二人でそれらを堪能し、温泉でゆっくりと疲れを癒した。
 ちなみに、ここの温泉は混浴だが、まだ一緒にお風呂に入るには、恥じらいがある(一方的に)ので、温泉には、マリアが先に入り、その後で大神が入った。

 「ふう・・・・、さっぱりした」
 大神が温泉から上がって部屋に戻ると、いつの間にやら、布団が用意されていた。マリアは、というと、窓辺の椅子に腰掛けて、半分ほど開いた窓から、外を見ている。
 「あ、お帰りなさい」
 「ああ、景色を見ていたのかい?」
 「ええ・・・・」
 ふっと、マリアが遠い目になる。
 「時折見える船の灯りと、波の音が心地良くて・・・・」
 「マリア・・・・」
 部屋の明かりに背を向けているため、翳って、どこか切なげに見えるマリアの横顔を、大神はじっと見つめた。
 「・・・・あっ、すみません。私ったら、また・・・・、悪い癖ですね。今日は二人きりなのに・・、退屈させてしまいましたね」
 大神の視線に気付き、マリアが振り返る。
 「いや、そんなことはないよ」
 大神が膝をついて、マリアと視線を合わせる。
 「俺は、こうしてマリアと同じ景色を見られるというだけで、十分楽しいから」
 「そんな・・・・」
 「いや、ほんとうだよ。今日は何もかもが嬉しいんだ。三年かかったけど、やっとここに来られたんだから」
 ああ、とマリアが頷く。
 三年前、花組の皆とここに来た時、大神たちは、黒鬼会の急襲にあった。その最中の出来事。
 「来年は二人で来たいね」 戦闘中、ふと漏らしてしまった本音。
 不謹慎だと怒られるかと思ったが、マリアは真っ赤になって俯いた後、考えておきます、と答えたのだった。
 「次の夏は、あなたは巴里にいましたからね」 
 「うん・・・・」
 否応無く二人を引き離した巴里留学。その時の胸の痛みは、癒されていたが、忘れ去ったわけではない。
 「ありがとう、マリア」
 「えっ!?」  
 大神の唐突な言葉に、マリアは驚いて顔を上げた。
 「何が・・・・ですか?」
 不思議そうに尋ねるマリアに、大神は少し赤くなった後、言葉を続けた。
 「俺を待っていてくれたこと、だよ。それから、俺を選んでくれたこと。今更だけど・・・・、本当に嬉しかったんだ。ありがとう」
 「い、一郎さん・・・・」
 突然、思いもよらない言葉を告げられ、マリアは呆然と大神を見つめた。そんな彼女を見つめ返し、大神は、そっとマリアの手を握った。
 「俺たちは・・・・、その、夫婦になったわけだし、これからは・・・・、いや、これからも、二人で支えあっていこう。よろしく、マリア」
 大神がにっこりと笑いかける。だが、その笑顔は、マリアの目には、幾分、ぼやけて見えた。
 「そ、そんな・・・・、そんなこと・・・・・・」
 俺を選んでくれた? 何を言っているのだろう、この人は。選んだのは自分ではない。選んでくれたのは・・・・・・。
 「お礼を言わなければならないのは、私のほうです。あなたが、いてくれたから・・・・。私を、私なんかを選んでくれたから・・・・」
 「マリア」
 大神が、マリアの言葉をさえぎるように、彼女をぎゅっと抱きしめた。
 「また、そうやって、すぐ自分を卑下するんだから。私なんか、なんて言わないでくれよ。君はすばらしい女性じゃないか」
 「そんな・・・・」
 「好きだよ、マリア」
 頬を寄せて、柔らかな彼女の唇に、そっと自分の唇を重ねる。やがて、マリアの体から力が抜け、瞼が閉じられた。

 ずっと・・・・、一緒にいたい。側で支えあいながら生きていきたい。
 同じ思いが、二人の心を占める。
 それは、二人がこれまで培ってきた確かな絆。
 長い年月も、心の痛みも、全て、無駄ではなかったのだ。

 「・・・・マリア」
 大神がマリアを抱きしめたまま、立ち上がる。マリアもそれに倣い、二人は部屋の中央に敷かれた布団のほうへと移動した。

 閉め忘れた窓から差し込む月明かりの中、二人は、ようやく身も心も一つになった。

                                       <Fin>

 


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