別れの前に


 その夜、マリアは寝つけなかった。
 ベッドに入る気すらせず、ただ、椅子に座って、じっと空の一点を見つめていた。
 ―――早く寝ないと、明日の稽古に差し支える。・・・そう思っては見るものの、一向に眠気が訪れる様子はない。
 「・・・・・・隊長」
 マリアは、もうすぐ遠くへ旅立ってしまう恋人の顔を思い浮かべた。
 いつでも、自分を力づけてくれたやさしい笑顔。その笑顔と別れなくてはならない。人々の幸せのために。彼が、今よりもっと成長するために。
 「・・・・・・・・・・・・」
 ふう、と息をついて、マリアは立ち上がった。
 街の灯が見たかった。
 柔らかで、暖かくて・・・、辛さや悲しみも包み込んだあの光が。


 マリアがテラスに行くと、そこには、すでに先客が来ていた。
 とくん、とマリアの胸が高鳴る。大神が、テラスの手すりに腕をかけて、外を眺めていたのだった。
 なんて、間の悪い・・・・・・。
 マリアは、複雑な思いで大神の後ろ姿を見つめた。そして、部屋へ戻ろうと、踵を返しかけたとき、気配を感じたのか、大神が、こちらを振り返った。
 「マリア・・・・・・」
 「・・・・・・」
 後悔がかすかにマリアの胸をよぎる。だが、気付かれてしまっては仕方がない。マリアは、テラスの扉を開けて、大神の隣へと歩み寄った。
 「こんな所で、考え事ですか?」
 「・・・・・・ああ」
 ぽつり、と呟き、大神は視線を元に戻した。
 二人の間に、沈黙が降りる。しかし、すぐに大神がそれを破った。
 「・・・・・・パリは、あっちの方角になるのかな」
 マリアの身体が、ぴくりと震える。
 「パリは・・・、遠いな・・・・・・」
 「・・・・・・。隊長は、本当によくやってらっしゃいましたから、そういうお話がくるのも当然ですね」
 努めて明るく、マリアはそう告げた。それを聞いて、大神が複雑そうな表情になる。
 「俺の力だけじゃ・・・・ないさ」
 ぎゅっと、手に持っていた箱を握る。マリアがそれに気付いた。
 「・・・それは?」
 とたんに、大神が、はっとして、慌てて箱を背中に隠す。
 「いやっ、これはっ・・・・!」
 「・・・・隊長?」
 大神は、何か言い訳を考えようとしたが、やがて、ふうとため息をついて、その箱をマリアに渡した。
 「え? 開けてもよろしいんですか?」
 大神が頷く。マリアが、不思議に思いながら、それを開けると、中には銀の台に小粒のエメラルドのついた指輪が収まっていた。
 「・・・えっ?」
 大神が微笑む。
 「さっきも言ったけど、今回、京極たちに勝てたのは、俺だけの力じゃない。皆の力が一つになったから・・・、皆が俺を支えてくれたから・・・、
 ・・・そして、君が側で支えてくれたからだ」
 マリアが、弾けるように顔を上げた。大神が、いつものように優しげに、いつもよりも強い瞳で自分を見ている。
 「隊長・・・・・・」
 「黒鬼会はいなくなった。だが、また奴らのような存在が現れないとも限らない。・・・でも、その時は、また立ち向かえばいいと思っていた。君とずっと一緒に戦っていこうと思っていた」
 「隊・・・長・・・・」
 「それ、今朝、買ってきたんだ。でも、そのすぐ後に、支配人から呼び出しがあって・・・・・・」
 「・・・・わたしに?」

 「・・・君の瞳と同じ、きれいな緑だろう?」
 突然のことに、マリアがとまどっていると、大神はふいっと彼女から視線をそらし、テラスの手すりに手をかけた。
 「マリア、俺はパリに行く」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「パリに留学して、戦闘についてもっと学んでくる。どれ位かかるか分からない。もしかしたら、何年も帰ってこれないかもしれない」
 大神の語調が、だんだん荒くなってくる。
 「これからどうなるか、俺自身、自分の将来がわからない。ましてや、何かを約束することなんて・・・・」
 マリアが、ぎゅっと目を閉じた。
 「隊長なら、あちらでも、素晴らしい活躍をなさるでしょうね」
 大神が振り向く。
 「頑張ってきてください。花組のことは心配いりませんから。
 ・・・・わたしは、ここで、隊長の活躍を祈っています」
 マリアが、目を開いて、にっこりと微笑んだ。透明な涙に彩られたそれは、今まで見た笑顔の中で、一番、美しかった。

 「・・・もう、遅いですね。そろそろ私は行きます」
 「・・・マリア!」
 くるりと背を向けたマリアを、大神は堪らず、抱きしめた。
 「・・・隊長・・・」
 「マリア、言わないでおこうと思ったが、やっぱり言わせてほしい」
 「・・・・・・」
 「二年前、一緒に君の国へ行ったね。雪の美しいあの国へ。
 今度は、君に、俺の生まれた所を見せたい。俺がどこで生まれて、どんな風に育ったのか、君に知って欲しい。・・・それから、俺の両親にも会ってほしい」
 「・・・・・・!」
 その意味するところに気付いて、マリアの身体が強張る。
 「マリア・・・・君が好きだ」
 大神が、腕をほどいて、マリアを自分のほうに向かせた。
 「今の俺に、確かな約束なんてできない。でも、それでも言いたい。俺は・・・必ずまた帝劇に戻ってくる。信じてくれるかい?」
 マリアは、じっと自分を見つめている大神の真摯な顔を見つめた。
 瞳が揺れている。彼は、自分の答えを待っている。自分の一言を。
 マリアは、悲しげに目を伏せた。
 「わたし、は・・・・」
 答えられない、そう答えようとしたとき、大神が、マリアの顎に手をかけて、強引に彼女の顔を上げさせた。
 「マリア、目をそらさないで。俺を見て」
 息がかかるほど近く、大神の顔が迫ってくる。
 「俺は、君の心が知りたいんだ。君の一言で、俺はどんなにでも頑張れる。だから・・・・。
 マリア、聞かせてほしい。君の心を」
 「・・・・・・・・・・」
 マリアは、口を開いた。
 自分は国を捨てた女。純粋な日本人でもない。これから、軍の重役につくことになるであろう大神とは、つりあわない。そう言うつもりだった。
 でも・・・・。
 マリアは、腕を伸ばして、大神に抱きついた。
 「・・・大神さん」
 自分が愛している人が、自分を愛していると言う。自分の帰りを待っていてほしいと言う。自分を必要としていると言う。
 どうして、言えるだろう。
 「・・・本当は、とても嬉しかった。
  本当は、その言葉を待っていた。
  本当は―――――」
 マリアが、大神の肩に顔を伏せる。
 「大神さんと離れるのは・・・、とても辛い」
 「・・・マリア」
 大神は、ほっとしたように微笑んで、マリアの背を優しく抱きしめた。
 「ありがとう。それじゃ、今度は、君の返事が聞きたいな。俺はパリに行って、きっと強くなって帰ってくる。もっと頼れる男になって、君のところへ帰ってくる。
 信じてくれるかい?」
 「・・・・はい。信じます、大神さん」
 「マリア・・・・」

 

 一週間後、大神は旅立っていった。
 「みんな、ありがとう。元気でな!」
 花組の面々が、敬礼で見送ってくれている。それを嬉しそうに眺めた後、大神は、その内の一人に視線を注いだ。
 (元気で。皆を頼む)
 (はい、任せてください)
 微笑みあう二人。

 船は、次第に遠ざかっていった――――。

 


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