少しだけ…

      翠 はるか


 夜もかなり更け、街の灯りがひとつ、またひとつと消え始める頃。マリア・タチバナは帝劇の中を、一人歩いていた。
 別にのんきに散歩をしていたわけではない。今夜は、見回り役の手が塞がっているので、彼女が代わりにその役を勤めていたのだ。そんなことは、舞台女優たる彼女のする事ではないのだろうが、マリアはそういう事を人任せにすることが出来ない性格だった。
 サロン、テラス、ロビー。一通り見てまわるが、特に変わったところはない。
 後は、地下と舞台ね……。
 そう考えて、マリアは少し眼光を和らげて、舞台の方向へ目を向けた。
 今、舞台では、新しく彼女たちの隊長となった人が、舞台の修理を行っているはずだ。
 大神一郎少尉……。
 士官学校を首席で卒業したというだけあって、戦闘センスは確かに並ではない。だが、命を預ける隊長として信頼していいものかどうか、マリアはまだ決めかねていた。
 …まあ、すみれとさくらの喧嘩を止められたのは、評価すべき点かもしれないわね。
 内心で呟いて、マリアはくすりと笑う。
 本番中に壊れてしまった舞台セットの修理を買って出ることで、みなの怒りと苛立ちを止めてくれた。そう…、それに、以前にもこういう事があった。あれも、すみれとさくらが揉めていた時。自ら喧嘩の中に飛び込んでいって、両の頬に、赤い手の跡をつけられて。
 私では、ああいう止め方は出来ない。彼は、確かに人をまとめる力を持っているといえるのかもしれない。
 でも……。
 マリアは無意識のうちに、胸のロケットを握り締めた。そして、舞台の方へ足を向ける。
 少し…、様子を見に行ってみようか。
 既に、半分灯りの落ちた帝劇の廊下を、マリアは足音もなく歩いていく。そして、支配人室の前に差し掛かったとき、二階へ続く階段から、足音が聞こえてきた。
 ……こんな時間に?
 「誰?」
 マリアは足早に階段の下に歩み寄り、誰何の声を投げかけた。
 「きゃあっ」
 小さく叫んで、そこにいた人物がぺたんと階段に座り込む。改めて見てみると、それはアイリスと紅蘭だった。驚きに目を見開いて、マリアのほうを見ている。
 「紅蘭、アイリス…。あなたたち何をしているの?」
 紅蘭が、ほうっと息をつく。
 「…なんや、マリアはんかいな。脅かさんといてや、もう」
 「そうだよ! アイリスお化けが出たのかと思っちゃった……、くすん」
 「何を言っているの。もう消灯の時間よ。アイリスももう寝る時間でしょ? 二人して何をしているの?」
 マリアが詰問すると、二人は顔を見合わせ、すぐにアイリスがむくれた顔で答える。
 「…だってえ、お兄ちゃん、まだ舞台の修理してるんでしょ? アイリスお兄ちゃんの所に行きたかったんだもん」
 「ははは、まあ、そういうこっちゃ。アイリスが大神はんのこと心配や言うし、ウチも気になったしな。ちょっと、様子見に行こうと思うて」
 マリアはため息をついた。
 「気持ちは分かるけど…」
 実際、自分も同じ事をしようとしていたのだから。
 「でも、だめよ。部屋に戻りなさい」
 「ええ〜〜〜〜」
 アイリスが思いきり不満の声をあげる。
 「アイリス、大神少尉が舞台の修理を買って出たのは、私達を休ませるためなのよ。それなのに、こんな時間に出歩いていたんじゃ、少尉の気持ちを無駄にすることになるでしょう?」
 「…ん〜…。…じゃあ、マリアは? マリアは何してたの?」
 「私は見回りよ。後、地下を見回ったら部屋に戻るわ」
 アイリスは納得したように、でも、不満を残した顔で、ぷいっと横を向いてしまった。
 「分かってくれたわね。それじゃ、紅蘭、アイリスを部屋に連れていってくれる? あなたも、来た早々で疲れているんだから、早く休みなさい」
 「はーいはい。分かったわ。アイリス、しゃあない、部屋に戻ろか」
 「…はーい」
 二人が階段を上がっていくのを見届けて、マリアは再び舞台の方に歩き出した。
 …二人も気にしていたのね。
 廊下の角を曲がり、衣裳部屋の前まで来る。マリアは、そこでまた人影を見つけた。
 あれは……。
 マリアは少なからず驚きの混じった視線を、その人影に送った。
 「すみれ」
 「きゃあっ」
 先ほどの二人と同じような反応をして、すみれが振り返る。そして、マリアがそこに立っているのを見ると、慌てたように袖で口元を押さえた。
 「あら、マリアさんじゃありませんの。何をしてらっしゃるんですの?」
 「見回りよ。あなた…、少尉を心配して見に来たの?」
 もしかして、と思いつつ問うと、すみれは一瞬動揺した後、ほほほと笑いながら、マリアの横を通り抜けた。
 「ま、まあ、何をおっしゃるんですの。私が、どうしてわざわざそんな事をしなくてはなりませんの? ただ気晴らしに散歩していただけですわ」
 「こんな時間に? それに、舞台を覗き込もうとしていたようだけど」
 更に問うと、すみれはむっとしたようにマリアを睨みつけた。
 「そんなものは、私の勝手ですわ。気晴らししたいと思ったから、出てきたまでのこと。時間や場所なんて関係ないんじゃなくて? …まったく。私、気分が削がれましたわ。失礼します」
 一方的にまくしたてて、とっとと去っていってしまう。マリアはその背を見送って、小さく微笑んだ。
 あんな事を言っていたが、大神を気にして見に来たことは間違いない。すみれがそんな行動を取るとは意外だったが……。
 マリアは舞台の方に視線を向けた。
 人徳……というべきものなのだろうか、これは。皆が…今日来たばかりの紅蘭さえも、大神の事を気にしている。
 人から好意を持たれやすいということは、大事な隊長の資質のひとつだ。もちろん、これくらいのことで、簡単に判断は出来ない。けれど……。
 マリアは、舞台に背を向けて歩き出した。皆を部屋に返したのに、自分だけ大神の様子を見に行くのは不公平だと感じたからだ。
 ……もう少し、彼に対する評価を改めてもいいかもしれない。
 マリアは、なんとなく軽くなった気がする心を抱えて、見回りのために地下への階段を降りていった―――――。


<了>


で、この後、さくらが降りてきた、と(^^。
私、この話に書いたようなことが実際にあったと信じてるんですけどね。
あの花組の方々が、さっさと寝てしまったなんてことはないと思うんですよ。

 

戻る