セレナード

  序


 放課後の屋上で、フルートの音が鳴り響いていた。
 美しい中に、どこか物悲しさを感じさせる旋律が響く。屋上には、奏者のほかに誰もおらず、生まれる音は、誰の耳に届く事もなく空へと溶けていく。

 柚木は演奏をやめて、空を見上げた。

 聴かせる為でない音を奏でるのは、久し振りだった。それだけ、今日は心がざわついている。風がいつもより心に響く感じがする。―――何かが起こる気がして。
 柚木は小さく笑った。
 この欺瞞に満ちた日常に、何か、などそう起こるものではない。起こったとして、予想の範囲内。それなのにこうも心が波立つのは、どうした事だろう。
 埒もない思考に、柚木が目を細める。
その時、空をすうっと何かがよぎった。
「……?」
 目を瞬かせるが、空には既に何の形跡もない。
「気のせいか?」
 呟くが、答えるものもいない。
 柚木はしばらく空を眺めていたが、気のせいだと結論づけて、己の思考へと戻って行った。


 彼がその正体を知るのは、もう少し後のこと。
 それを知った時、すべてが始まる。
 ―――コンクールが始まる。









  一


 三年の教室の前に人だかりができていた。
 その中心では、柚木が優雅に微笑んでいる。
「柚木様、おめでとうございます」
「柚木様なら、当然だと思ってましたわ」
 口々に祝いの言葉を述べるのは、柚木のファンの女生徒たちだ。人によっては、多少の侮りをこめて『親衛隊』と呼んでいる。
「ありがとう、君たちの期待に応えるためにも頑張るよ」
 柚木が微笑みかけると、人だかりから黄色い声が上がる。耳につく不協和音に、彼は内心で眉をひそめるが、表情は変えない。
 これは儀式のようなものだ。
 あるいは、施し。
「もっとも強敵ぞろいだからね。どこまでやれるかは分からないけど」
「そんな。柚木様のフルートが一番素敵ですよ」
 彼が何か言えば、予想通りの答えが返ってくる。
「そうですわ。さすが、参加者のレベルは高いようですけど、柚木様に敵う人なんて」
「あら、そういえば、一人、妙な人が交じってなかった?」
「あ、あの普通科の子でしょ」
 その時、それまで揺るがなかった柚木の表情が、わずかに揺れた。
「信じられないわよね。どういう事かしら」
「そうよ。普通科のくせに」
 柚木はわずかに悲しげな笑顔を作った。
「そんなこと言わないで。普通科の生徒にも参加権はあるんだから、おかしな事じゃないよ。むしろ、普通科からの参加は色々とハンデもあるだろうし、助けてあげなくちゃ」
「あっ、柚木様…、そ、そうですね」
「ごめんなさい、私たち…」
「分かってくれたならいいんだよ。それじゃ、そろそろ授業が始まるから」
「はい、失礼します。コンクール、頑張ってくださいね」
 口々に言い残しながら、女生徒たちは去っていった。
 柚木は息をつく。
 予想通りのことだが、女の集団を相手にするのは疲れる。しかも、今日は特に興奮度が高かった。
 柚木は、今朝、正式に参加決定の知らせを受けたコンクールのことを考えた。
三年ぶりに開かれる星奏学園学内コンクール。高校生の、それも学内のものとはいえ、そのレベルの高さは内外ともに有名だ。
 前回のコンクールが開催されたのは、柚木が入学する前年のこと。そのため、コンクールの話は諸先輩や先生達から伝え聞いていた。
 コンクールにはふたつのジンクスがある。
 ひとつは、優勝した生徒には、将来の音楽的な成功が約束されるというもの。
 そして、もうひとつは『恋が叶う』というもの。
 こちらのジンクスのせいもあって、余計に女生徒たちは騒いでいるらしい。
 柚木自身は、そんなジンクスは端から信じていない。コンクールは、この学校が設立された当初から行なわれているので、それだけ長い歴史があれば、成功した人間や恋人が出来た人間のひとりやふたり生まれるだろう。
 だが、そんなジンクスはさておき、コンクールの出場者として選ばれたのは悪い気分ではない。むしろ、当然とも思っていた。それは傲慢ではなく、彼が自分をよく知っているから言えることである。
 ただ、三年の今、特に普段から多忙な柚木には、そのために時間を取られるのは迷惑な話だ。
 うまく辞退する口実も考えたが、結局、参加するメリットに針が振れた。彼は完璧な優等生として、教師生徒、男女共に人気が高かったが、生徒会だの役員だのといった雑用係は避けてきたので、意外に公式な記録に名が残っていない。
新入生代表と、おそらく頼まれる卒業生代表。その他に、もうひとつくらい学園に彼の名を残したいと思っていた。その点、コンクールは最適だ。あらゆる媒体で記録が残される。
そう考えたのは、やはり彼が三年であるがゆえ、残りの時間を意識してのこと。
 しかし……。
 柚木の眉が不快げにひそめられる。
 今朝知った、参加者の面々。その中に、合点のいかない参加者がひとりいる。
 女生徒たちも言っていた、普通科から参加するというひとりの生徒。
 その生徒の名を、柚木はそれまで聞いた事がなかった。とりわけ、目立つような生徒ではないのだろう。肝心の音楽の腕も怪しい。レベルの高い奏者なら、音楽科のある星奏学園で、わざわざ普通科に入る必要性がない。
 だが、音楽科の中に交じる普通科の生徒は、さぞかし話題になるだろう。話題性という面で、既に彼女は柚木に勝っている。また、彼女の腕がさほどでなく、コンクールのレベルが下がれば、相対的にコンクール参加者全員の評価も下がる。なんにせよ、目障りな相手に違いなかった。
 …まあ、いい。ひとまずお手並み拝見といこう。
 油断して足元をすくわれる、なんて可能性は万にひとつでも潰しておかなければならない。
 そんな事はありえないだろうけど。


 ―――はああ…。
 放課後、森の広場のベンチに腰かけ、日野香穂子は深いため息をついた。
 そんな彼女の隣で、ヴァイオリンケースがでんと存在を主張している。
 …なんで、こんな事になっちゃったんだろ。
 隣を見るたびに、実はこれは幻で消えてしまっているのではないかと期待するのだが、ことごとく裏切られた。
 夢ではないのだ。突然現れたあの妖精も、このヴァイオリンも。そう確認するたびに、彼女の心は重くなる。
 そりゃ、小中学校の合唱コンクールなんかで、ピアノが弾ける子を羨ましく思った事もあるし、楽器にまったく興味がないわけじゃない。でも、弾けたらかっこいいなというくらいで、習った事なんか全然ないのに。
 それが、突然コンクールに参加しろと言われ、自分の意志などお構いなしに決定されてしまった。
 自分には縁のない世界だと思っていたし、レベルの高いコンクールだとも聞いている。素人の自分が参加したって、恥をさらすだけではないか。
 もう一度、香穂子が深いため息をついた時、彼女の前にふわりとした光の粒子が現れた。
「演奏しないのか、日野香穂子」
 小さな災厄がそこにいた。
「リリ!」
 香穂子が叫んで、腰を浮かす。
 小さな妖精は、ひどく嬉しそうな顔をして、彼女を見ていた。
「いくら魔法のヴァイオリンとはいえ、練習しなければ、良い演奏はできないぞ」
「待った! その話だけど、私はコンクールに出るなんて、一言も言ってないからね」
「な、なにっ。出てくれないのかっ?」
 リリの顔から笑顔が消え、半透明の羽がぴんと尖る。
「当たり前でしょ。一度もヴァイオリンなんて弾いた事ないんだよ」
「だから、そのヴァイオリンを使えば…」
「こんな怪しげなもの、いりません」
「あ、あやしげ〜? 我輩の長年の研究成果を怪しげとはひどいのだ」
 リリがわめくが、香穂子は冷たく横を向いた。勝手にコンクール出場を決められた恨みもある。
「とにかく、一度弾いてみてほしいのだ! そうすれば、お前にも音楽の楽しさが分かるはずだ」
「いやです」
「日野香穂子〜! 頼むのだ! 一度くらい、いいだろう。一度くらい!」
「………………」
「日野香穂子! ひ〜の〜か〜ほ〜こ〜! 日〜野〜……」
「…うう、分かったよ」
 耳元で何度も大声を上げられ、香穂子は根負けして頷いた。
それが命取りだったと、後々になって思う。
 香穂子は恐る恐るケースを開けてみた。中には、つややかに光るヴァイオリンが入っている。
「まず弓の毛を張って、松脂を塗るのだ」
「えーと、松脂ってこれ?」
「そうだ、塗りすぎてはいかんぞ。まあ、弓が加減を教えてくれるから安心しろ」
「はあ……」
 弓に手をかけると、手が弓に引っ張られるように、すっと動いた。
「ひゃっ」
「落ち着け。そのように、技術的なことはヴァイオリンが教えてくれるのだ。お前は、ヴァイオリンの言うことを素直に聞いていればよい」
 そ、そう言われても…。
戸惑っている内に、ヴァイオリンは勝手に演奏の準備をしてくれる。便利といえばそうだが、妙な感じだ。
「ちょ、ちょっと、何この体勢。きついよ」
 ヴァイオリンを構えてみて、香穂子は悲鳴をあげる。手首は変にひねっているし、腰もねじった状態だ。
「すぐに慣れるのだ。では、なんでもいいから、お前の好きな曲を思い浮かべながら弾いてみろ」
「す、好きな曲?」
 そう言われても、好きな曲と言ったら、歌謡曲くらいしか思いつかない。
 そう思いながらも弓を動かしてみると、思ったとおりのメロディがヴァイオリンから溢れる。
 香穂子は驚いて、弦から弓を離す。
ほ…、本当に弾けちゃった。
 リリが満足そうに笑う。
「うん。なかなかいい音なのだ。曲というにはまだまだだがな。どうだ、すごいだろう」
「すごい、けど…」
 香穂子は釈然としない思いでヴァイオリンを降ろし、ケースにしまう。しまい方までヴァイオリンが先導してくれて、少々気味が悪い。
「なんだ、もう弾かないのか?」
「一度だけでいいんでしょ。確かに、このヴァイオリンすごいと思う。でも、コンクールなんだから、順位がつくわけでしょ? こんなの使うのはずるいんじゃない?」
「勝敗なんて関係ないのだ。我輩の望みは、誰もが音楽を楽しんで、そして幸せになる事なのだ。お前にも音楽を楽しんでほしい、それだけなのだ」
「…だったら、別にコンクールに出なくてもいいんじゃない?」
 リリがぎくりと肩をこわばらせる。
「そ、それでは、皆に音楽の楽しさが伝わらないのだ! コンクールは、皆に音楽の楽しさを知ってもらうためのもの。我輩はお前に我々と人間のかけ橋になってもらいたいのだ、頼んだぞ!」
 リリは一気にまくしたてて、空中に飛び去っていった。
「ちょ、ちょっとリリ!」
 既に姿は消えていたが、香穂子は咄嗟にヴァイオリンケースをつかんで、その後を追った。



 柚木は、ようやく親衛隊を撒き、森の広場の奥に避難していた。
 彼女らの相手をするのも日課のうちだが、いつまでも側にいられては、落ち着いて考え事もできない。
 それにしても……。
 人混みを離れた柚木は、周囲に気を張る必要もなく、コンクールに思いを巡らす。
 昼休みに、コンクール担当の金澤に話を聞いてきたのだが、思ったより面倒そうだった。
 テーマや編曲など、これまでにない制約がある。それなりの成績を残そうと思ったら、他の何かは犠牲にせざるを得ない。うまく調整しておかないと。
 そう時間はないのに。
 我知らず息をついた時、光の線が脇の茂みから飛び出してきて、柚木の頭上をよぎった。
 今のは…。
 自然と光を追って目線が動く。その背後で茂みが分かれ、人影が飛び出してきた。
「あっ」
「きゃっ!」
 避ける間もなく、その人影は柚木にぶつかった。そう大した勢いではなかったが、不意をつかれて、柚木はよろめく。
「ご、ごめんなさいっ。大丈夫ですか?」
「ああ……」
 体勢を立て直して、改めて見ると、ぶつかったのは普通科の生徒だった。慌てた顔で柚木を見上げている。
「僕のほうこそ不注意だったよ。君に怪我はない?」
「はい、大丈夫です」
 彼女が安心したように笑う。柚木も笑い返しながら、彼女が手にしている大仰なケースに気付いた。
「それ…、ヴァイオリンケースだね。珍しいね、普通科の子が……」
 柚木は言葉を途切れさせた。
 ―――そうか、彼女が…。
「君、もしかして日野さん?」
「えっ? …は、はい、そうですけど」
「ああ、やっぱり」
 柚木がどこか迫力のある極上の笑みを作る。その笑みを受けた香穂子は赤面して、身じろいだ。
「コンクールに参加するんでしょう? 僕は柚木梓馬。僕も参加者なんだ、よろしくね」
「コンクールに……」
 香穂子はまじまじと柚木を見た。自分が参加決定したという事で頭がいっぱいで、他の参加者なんて見ていなかった。
 柚木は更に言葉をつむぐ。
「専攻はフルートなんだ。普通科から参加者がいると聞いて、なんの楽器を弾くのかと思っていたけど、ヴァイオリニストなんだね」
 その一言で、香穂子は我に返る。
「いえ、あの。ち、違うんです、すみませんっ」
 自分でもよく分からない事を口走り、香穂子はお辞儀をして駆け出した。本物の音楽家を前にして、ひどくいたたまれなかった。
「あっ、日野さんっ」
 そんな彼女の心情など分かるはずもなく、柚木は驚いて香穂子の名を呼ぶ。だが、そのまま彼女は走り去っていった。
その背を見送り、柚木はひそかに眉をひそめる。
 なんなんだ、あれは。
 柚木に声をかけられて緊張した、というわけでもなさそうだ。それ以外に、こんな訳の分からない反応をされた事はないのだが。
 まあいい。一応、顔だけは覚えておこう。
 柚木は彼女が去った方向を一瞥し、再び歩き始めた。

【 続く 】

 


とまあ、こんな感じで柚木VS香穂子の物語が始まります(違うだろ)。 
1月のインテックス大阪で発行した準備号から載せてみました。