子守歌
序章 澄んだ空を、瑠璃色の鳥が弧を描いて横切っていく。 その鳥が落とす影が、一瞬自分に重なったのを感じ、柚木は空を見上げる。 鳥は、優雅なほどのなめらかさで、空を落ちていく。羽ばたいて上昇し、羽を広げて重力のままに進みながら落ちていく。そうやって鳥は小さな身体で、日に何百キロという距離も移動する。 あの鳥は落ちている。その姿――空気の波に乗って大空をすべる姿は、他のどんな時よりも美しいと思う。 次いで、彼は眼下に視線を転じた。彼のいる屋上からは、正門前広場がよく見える。人影はまばらだ。まだ放課後になったばかりのこの時間に通るのは、急ぐ用事がある生徒か、部活のない生徒だけだ。 ここから見る学院の風景を、彼は愛していた。アール・デコ調の校舎、その伝統を感じさせる佇まい。そして、何よりこの学院を満たす空気が感じ取れる。 初めてこの学院を訪れた時から、どこか空気が違うと思っていた。それをどう表現していいか思いついたのは、入学して一月ほど経った頃。 ―――この学院は、音でない音に満ちている。 静寂の中にも、美しい音を感じる。 気のせいだと幾度となく思ったが、そう捉えるのが一番しっくりきた。 それが気のせいでなく、更にその正体まで知ったのは、ごく最近だ。 柚木が嘲笑とも冷笑ともつかない笑みを浮かべる。 出来の悪い喜劇を見ているようだ。 彼がここで、こんな笑みを浮かべている事を、学院の――いや、世界の誰も知らない。 優しい笑顔の裏に宿る、狡猾な自分。髪をかきあげる仕草でさえ、計算のうち。いつから、そう振る舞うようになったのか、はっきりと線を引くのは難しい。 ただ、幼い頃から、自然と建前というものを覚えるようになっていた。美しい華の道の奥は、濁った蜜で淀んでいる。人間というものは、一皮剥けば、誰でも後ろ暗い一面を持っているものだ。まして、閉鎖された世界に人間が集まれば、淀みはもはや必然の成り行きだ。 そんな中で育ってきた柚木は、人の隠し持つ本音に、とても敏感だった。 ほんの少し、虚栄心の部分をくすぐってやる。それだけで人は面白いくらい簡単に動かせる。 誰しも己の思い通りに事が運ぶことを望んでいる。相手の望み通りに動く振りをして、その実、相手を支配しているのは柚木。 それを周囲の人間全てに対して行なうのは、多少の無理が必要だった。けれど、それを貫いていく自信はあった。今回の事も、避けられないなら最大限利用する方策を考えるまでのことだ。 柚木は、今朝、参加者決定の発表があったコンクールのことを考えた。 星奏学院学内音楽コンクール。その名を言えば、音楽を志す若者には大抵通じる。高校の学校行事に過ぎない事を考えれば破格のことだ。それくらい、そのレベルの高さは内外ともに有名だ。 柚木もそのコンクールの存在は、入学前から知っていた。前回のコンクールが開催されたのは柚木が受験した年だったため、諸先輩などに話を聞いていたし、入学してから、コンクールについてのレポートを読んだこともある。異種の楽器によるコンクールで、確か、前回はヴァイオリニストが優勝だった。 柚木は、そのコンクールの出場者として選ばれた。その意義を、恐らく本人が一番よく分かっている。自分を知り、自分を活用することに、これほど熱心な生徒は、彼の他にはそういない。 傲慢な言い方をすれば―――当然。もちろん口には出さないけれど。 ただ、進路固めをする三年のこの時期に、時間を取られるのは迷惑な話だった。特に普段から多忙な柚木には。 だが、今のところ、参加の方向で調整を始めていた。コンクールの期間は、およそ一月半。それくらいなら、折り合いをつけられるだろう。デメリットのほうが大きくなるようなら、その時に辞退を考えればいい。うまく辞退する口実くらい、いくらでもある。 柚木の口元がかすかに歪む。 予測通りの現実が、たまに馬鹿らしくなる。そうなるように、他ならぬ彼自身が仕向けたのだが、それでもつまらないと感じてしまう。 このゲームは飽きてもやめることはできないのだから、もっと楽しませてほしい。 今度のコンクールは、どうなるか。予測した結末はいくつかあって、そのどれかになるように動いていくつもりだが、少しはどんでん返しが欲しい。 この時点では、柚木にはそんな期待もあった。 ――――――…………。 ………………。 「……?」 柚木は目を瞬かせながら、顔を上げた。かすかな音が、耳をかすめた気がする。 一瞬、いつもの音のない音だと思った。だが、それに似ている気はするが、もっと現実感があった。 柚木は耳を澄ませた。 今度は、もう少しはっきりした短音が、続けざまに聞こえた。どうやら、ヴァイオリンの音のようだった。調弦をしているのだろうか。 音の源を探してみると、練習室から聞こえてくるように思えた。練習室は防音完備だが、窓が空いていれば、屋上に音が届く事がある。 音はすぐにやみ、しばらく沈黙が続いた。 調弦が終わったのか、と思った瞬間、高く澄んだ音が鳴り響いた。 柚木は思わず手すりを握っていた手に力をこめた。 これまで感じていた音のない音。それが形となって、空気を震わせる。 ―――アヴェ・マリア。 続くフレーズからその曲名を知り、柚木はいっそう音に耳を傾けた。 「……?」 柚木の眉がひそめられる。 続いたフレーズは、それなりに弾けてはいるが、それ以上のものではなかった。さきほどの、音で貫かれたような衝撃は面影すらない。 気のせいだったのかと考え、すぐにそれを否定する。 単なる気のせいで、心を震わせることなどない。 そう思考し、気付く。 『心を震わされた』…? 間抜けにも、自分の思考に自分で驚く。確かに、今の音は彼の心を動かした。 ―――誰が、弾いているのだろう。 ここからでは分からない。下に行って、確かめなければ。 柚木は身を翻しかけ、足を止めた。 彼の冷静な部分が、その行動が衝動的なものだと告げている。衝動にかられて、良い事は何もない。 いったん平静を取り戻すと、彼の耳からあの音は消えていく。柚木はひとつ息をつくと、再び手すりの向こうへ視線を戻した。 常になく、馬鹿なことをするところだった。やはり、多少は浮かれていたのだろうか。 「…………」 柚木は思考を中断して、手すりから離れた。ここにいる事が、妙に居心地悪くなっていた。 誰もいなくなった屋上で、かすかな笑い声が響く。 ―――コンクールの幕開けだった。 【続く】
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