名残の雪                               by  翠 はるか

 格子のすきまから入り込んだ風が、千歳の額髪をひゅうと揺らした。
 その微風は立春を過ぎたとは思えぬような冷たい風で、千歳は不思議に思って顔を上げる。だが、御簾と几帳で幾重にも遮られた室内は、風は通しても、外の様子を窺い知ることはできない。
 「姫様、どうかなさいましたか?」
 そんな千歳の様子に気付き、忙しく立ち働いていた女房の一人が声をかける。百鬼夜行の夜から一年。家人の千歳に対する態度は、ずいぶんと柔らかいものになっていた。
 千歳は小さく笑んで、その女房を見上げる。
 「まだ、こんな冷たい風が吹くのかしらと思って」
 答えると、女房はああと言って頷いた。
 「さきほどから、雪が降り出したようでございますから」
 「まあ。名残の雪ね」
 春先に、冬の名残に降る雪。この雪を最後に、地は暖かくきらきらしい空気に満ちていく。
 「そうでございますね。もう季節は春を迎えているのです。この対屋と同じでございますわね」
 そう言って意味ありげに笑う女房に、千歳はかすかに頬を赤らめて視線をそらした。
 今夜訪れる人を指しているのだとは、考えるまでもなく分かる。このところ女房たちはずっとこんな風で、千歳を恥ずかしがらせ、落ち着かなくさせる。今夜は特に。
 …雪に足を取られたりしていないかしら。
 不意に、そんな思考が頭をよぎる。すると、それを見透かしたかのように、女房が千歳に笑いかけた。
 「大丈夫でございますよ。名残の雪ですから、ひどい降りにはなりませぬ。まもなくお着きになるでしょう」
 千歳は見透かされたことにまた顔を赤らめつつ、女房を軽く睨んだ。
 「…そうね。けれど、火桶には炭を足しておいて」
 「かしこまりました」
 女房が一礼して、部屋の支度に戻っていく。それを見届けて千歳は目を閉じ、かの人に思いを馳せた。
 …今頃、何をしているのかしら。
 彼のことだから真面目に仕事をしているだろう。それとも、落ちつかない気持ちでいるのかしら。私のように。
 その様子を想像し、千歳の口元に笑みがのぼる。
 …こんな穏やかな気持ちになれる日が来るなど、思ってもみなかった。
 ありし日を思うと、信じがたいほどの幸福。これから先も苦難はあるかもしれないけれど、もうその道を一人で歩く事はないのだ。
 自然と龍神への謝辞が胸の内に湧く。時には、恨めしく思った事さえあったけれど、彼と出会ったのは己が神子であったがゆえだから。
 どうかお気をつけて。…そして、早くいらしてくださいませ。
 千歳は微笑み、そっと目を閉じた。


 待ちかねた人物がやってきたのは、それから間もなくのことだった。
 辺りがざわつき始め、控えていた女房たちが動き出す。
 千歳が緊張しつつ待っていると、少しして、別の女房に先導されて頼忠が現れた。
 「頼忠殿…」
 今日はいつもの服装ではなく、きちんと正装している。それが新鮮で、いつもより凛々しく見えて、千歳の胸がとくんと波打つ。
 「失礼いたします」
 頼忠が生真面目な声で挨拶し、千歳がいる座所の、御簾をひとつ隔てた座所に歩を進め、腰を下ろした。その様子は、いつもの彼のもので、千歳の緊張が少し解ける。
 「いらせられませ。外はお寒くていらっしゃったでしょう」
 千歳も挨拶を返し、いたわりの言葉を述べると、頼忠は何故か小さく笑った。
 「確かに冷え込んでおりましたが、そこで良いものを見つけました。どうぞ、お納めください」
 そう言って、頼忠はたもとから何かを取り出した。それを側にいた女房に渡し、女房が御簾の下から、それを差し入れる。
 「これは…」
 ほころび始めた桜の枝だった。
 「まあ。我が家のつぼみは、まだ固うございますのに」
 「雪の中で花開く様子が可憐で、ぜひ千歳殿にもお目にかけたいと思ったのですが、ここに来るまでに、雪は溶けてしまいました。残念です」
 「いえ…、露を含んだようで美しゅうございます。嬉しいですわ」
 千歳が微笑むと、それを御簾の外からも感じ取ったのか、頼忠も微笑んだ。
 「どうしても千歳殿にご覧いただきたかったのです。この桜の枝は、わたしにとっての貴女です。私の中で花開き、心に巣食った溶けきらぬ雪を溶かしてくださった」
 「頼忠殿……」
 千歳は頬を染めつつ、桜の枝をそっと胸に抱く。
 「それは、私のほうこそ申し上げたい言葉です」
 「千歳殿……」
 頼忠の口唇が、何か言葉をつむごうと開かれる。だが、その言葉は彼の喉の奥で留まり、代わりに別の言葉が押し出される。
 「…もう少し、お側に行ってもよろしいでしょうか」
 「……はい」
 女房はいつのまにか下がっていた。
 頼忠は身を起こし、御簾の左端をめくり上げて、そっとその内に身体を滑り込ませた。
 御簾の内の千歳はこの夜のために新調された衣服をまとっており、染め色も鮮やかな紋様が彼女を彩っている。
 「千歳殿…」
 頼忠が腕を伸ばす。かすかに震える指先が頬に触れると、千歳は思わず目を閉じた。
 彼の手は冷たかった。けれど、その手が触れた場所は何故かとても熱い。
 「頼忠…殿……」
 頼忠の手が遠慮がちに千歳の背に回され、彼の胸の中に抱き込まれると、熱は更に広がる。
 千歳もそっと彼の背に腕を回す。手が彼の髪に触れ、それが露を含んでいる事に気付く。
 「頼忠殿、髪が濡れております」
 千歳は目を開け、頼忠の髪を指先でなぞった。これも、雪解けの露だろう。しっとり濡れた髪は、絹糸のように柔らかく千歳の手に吸いつく。
 「ああ、大したことではありません」
 「けれど、お風邪を召されてしまっては」
 「大丈夫です。少しも寒さは感じません。むしろ…、熱いくらいに…」
 頼忠が千歳の顔を覗き込み、そっと口唇を重ねる。口唇は熱い。同時に重ねられる吐息もとても熱い。
 長い口接けが終わった後、千歳はほうっと息をつく。
 「…熱い」
 頼忠が小さく笑う気配がする。
 「はい。ですから、大丈夫です。…ですから、どうかもう一度目を閉じて」
 「……はい」
 千歳が請われるままに目を閉じると、すぐに瞼に柔らかな感触を感じた。額にも、頬にも。
 ―――このまま、ずっと側に。
 褥で小さな音が響き、几帳の帷子が揺れる。

 名残雪が降り、春を迎えたこの佳き日。二人は新枕を交わした。


―― 了 ――

 

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