「―――そんなに難しいことか?」
柚木は、秀麗な眉目をはっきりと寄せて、香穂子を見すえた。
「いえ、そういう訳じゃないんです…けど…」
対する香穂子は、彼と目を合わさないようにするのに精一杯。
「”けど”、なんだ?」
「……恥ずかしいです…」
何度目か分からない、彼のため息。
それとタイミングを合わせたかのように車が止まる。柚木はちらりと窓の外に視線をやり、舌打ちした。
「早くしないから、お前の家に着いたじゃないか」
「そ、それじゃ、先輩、ありがとうございました。さよならっ」
香穂子はこれ幸いと車から飛び出していく…はずだったが、柚木が簡単に逃がすはずがない。
「待てよ」
後ろから腕を掴まれ、香穂子の額に冷や汗が浮かぶ。
「香穂―――…」
「れ、練習しておきますから、もうちょっと勘弁してくださいっっ!!」
柚木が何か言う前に、香穂子は必死に叫んだ。その声が涙まじりになっている事に気づき、柚木は深々とため息をつく。
「あんまり待たせるなよ」
「…あ、ありがとうございます。それじゃ」
意外にもあっさりと解放してくれた事に驚きつつも、彼の気が変わらない内にと、香穂子はそそくさと車を降りる。
その態度が柚木にはまた面白くないが、今日はこれ以上彼女を追いつめても事態は発展しそうにない。黙って見送る事にする。
―――そんなに無茶な事を要求したわけではないのに。
おもしろくない。が、待つと決めた以上、しつこくするような事はしない。
柚木は、香穂子が家の中に入るのを見届けると、車を出発させた。
「「はあ……」」
ふたつのため息が期せずして重なり、それを見た菜美はきょとんと彼女たちを見返した。
「どうしたのよ、香穂子、冬海ちゃん」
「「あっ」」
今度は声が重なる。香穂子と笙子は慌てたようにお互いを見遣り、赤くなる。
「ご、ごめん、冬海ちゃん」
「いえっ、私こそごめんなさい」
「何をふたりで謝りあってるのよ。あんたたち、悩みでもあるわけ?」
「それは……」
「あの、ええと……」
またふたり同時に俯いてしまう。菜美はやれやれと呟き、手にしていたティーカップを置いた。
「悩みがあるなら話してみなさいよ、聞いたげるから」
「う、うん…」
「は、はい…」
ふたりもカップをソーサーに戻し、菜美を見つめた。
今日は週に一度の日曜日。三人で少々遠出をして遊びに出て、オープンカフェでお昼を取っていたのだが、急遽、青空悩み相談室に変更されることとなった。
「じゃ、まずは香穂子から」
菜美が司会者よろしく話を振ると、香穂子は緊張したように背筋を伸ばした。
「ええと…、実はね、その…、先輩のことなんだけど」
「柚木さんのこと?」
「うん、そう。…まあ、別に大した事でもないんだけど…。私にとっては、結構大した事なわけで」
「前振りはいいから、さっさと白状するっ」
「せ、急かさないでよ〜。言いにくいじゃない」
どことなくワクワクしてる風の菜美が恨めしい。
「あはは、ごめん。もう急かさないから、ゆっくり話してよ」
「…うん」
香穂子はこくんと息を飲み込む。実のところは、話してしまいたいという気持ちのほうが大きかった。
「その…、ねえ、先輩が言うのよ」
「なんて?」
「…名前で呼んでほしいって」
「へ?」
―――話は一昨日にさかのぼる。
いつも通りに帰りの待ち合わせをして、少し遅れた香穂子が、『先輩、お待たせしました』と声をかけて。そこまでは、確かにいつも通りだった。
だが、その後、車中で柚木が言ったのだ。
『お前、いつまで、”先輩”って呼んでるつもり?』と。
赤くなりながら、ようやくそう告白したとき、笙子があっと声を上げた。
「ど、どうしたの、冬海ちゃん?」
驚いて、ふたりで彼女に視線を向ける。
「あ、ご、ごめんなさい。お話の途中で…」
「いいよ。それより、気付いたことでもあるの?」
「いえ、その、そういうわけじゃなくて…」
笙子はもじもじと指先をいじる。
「その、私と同じ事でしたから……」
「え、同じ?」
「はい。…あの、一昨日、先輩と登校してるときに、その……、か、『和樹先輩って呼んでみたくない?』、って聞かれて…」
「うわー、一緒だ。火原先輩も名前で呼ばれたがってるんだね」
「は、はい。でも、わたし…、恥ずかしくて、呼べなくて」
「分かるっ、分かるよ、笙子ちゃん。改めて言われると、すごく恥ずかしいよね」
すっかり盛り上がって、香穂子は笙子の手をぎゅっと握りしめた。笙子も感動したように潤んだ目で香穂子を見返す。
「はい。香穂子先輩もそうだったんですね」
「そうなの」
見つめ合うふたりに、しかし、呆れたような声が水を差す。
「それが悩みねえ」
菜美の声には、付き合いきれない、というニュアンスがありありと見えていた。
「なによう、天羽ちゃん」
「呼べばいいじゃないの、名前くらい。なんで、それが悩みになるの?」
「だ、だって、今まで『先輩』って呼んでたのに、…恥ずかしくない?」
「私に聞いてどうするの。ま、私だったら別になんてことないけどね」
「そ、そうなんだ」
「でも、言われてみれば、確かに、あんたたち、私と話すときも
『先輩』、『先輩』としか呼んでないもんねえ」
菜美が笑いながら言う。脱力から立ち直ると、これはこれで面白いと思い始めていた。
「そ、そうだっけ」
「そうよ。香穂子が『先輩』と言ったら柚木さんのことで、冬海ちゃんが『先輩』と言ったら、火原さんのこと。あはは、私も慣れちゃって、あんまり気にしてなかったけど、確かにそうだわ」
「うーん…」
呼び続けているうちに、『先輩』というのが名前のように感じていたようだ。
「そろそろ名前で呼んでみたら? あんたたちは名前で呼ばれてるでしょ?」
「うん」
「はい」
「最初、そう呼ばれたとき、嫌だった?」
ふるふるふる。
ふたり仲良く首を横に振るのを見届けると、菜美は心持ち胸を張って言った。
「先輩たちも同じだと思うよ。よーし。じゃあ、ちょっと練習してみよう。せーの…」
「ちょ、ちょちょ、待ってよ、天羽ちゃん。練習って、今すぐ? 出来る訳ないでしょ!?」
そんな簡単にできるなら苦労はしてない! と言いかける香穂子を、菜美は制する。
「こんなの悩んでたって仕方ないことだもん。一度呼んじゃえば、あとは弾みがついて呼べるようになるって」
「そ、そう…?」
「そ、そうでしょうか」
「そうだって。それに、二人同時に言うなら、少しは恥ずかしさも減るでしょ」
「うん…」
「それは…」
互いを見合う香穂子と笙子に、菜美はぱんぱんと手を叩いてみせる。
「はいはい、ぐだぐだ言わない。香穂子、あんた後輩の冬海ちゃんにだけ言わせるようなことはしないわよね? 冬海ちゃんも、香穂子が一緒なら平気よね?」
「「は、はいっ」」
ふたりとも、菜美の妙な迫力に押されて、つい頷いてしまった。
その返事を聞いて、菜美はにっと笑う。
「よーし、いい返事。それじゃ、行くわよ。いち、にーの、はいっ!」
「あ、梓馬先輩っ」
「か、和樹先輩っ」
半ば叫ぶように彼らの名前を呼び、ふたりはぼっと赤くなってしまった。それを見て菜美は堪えきれずに吹き出した。
「あ、天羽ちゃんっ? なんで笑ってるの?」
「ごめんごめん。あんたたちがあんまり可愛いからさ。でも、呼べたじゃない」
「う、うん、まあ」
「後は、本人の前で言うだけだね〜」
「うううっ。それが一番難しいよ」
「わ、わたしも自信が…」
「じゃ、ふたりで約束したらいいじゃない。今みたいに、二人で一緒に名前を呼ぶってことにすれば言えるでしょ。もちろん、本当の意味で一緒じゃなくて、場所は別々よ。でも、自分だけじゃない、って思うだけで心強いでしょ」
「ん〜〜」
香穂子は首を傾けて考え込む。
この間はなんとか逃げたが、柚木もいつまでも待ってはくれないだろう。そうなると、多分、お仕置きとかいうことに…なる、だろうなあ……。
その様子がリアルに想像できてしまう。香穂子はぐっと拳を握りしめると、笙子を振り返った。
「それじゃ、冬海ちゃん、そうしようか」
「は…い。香穂子先輩が一緒なら、私…、頑張れる気がします」
「よし、決定ね。それじゃ、明日中に香穂子は柚木さんを、冬海ちゃんは火原さんを名前で呼ぶこと。オーケー?」
「「はい」」
ふたりは神妙な面持ちで頷いたのだった。
月曜日の朝、笙子はどうにかラッシュの人混みに乗り、改札を出た。改札を出ても人の数は変わらないが、広さが増すだけ密度も減る。
「あ、笙子ちゃん!」
ほっと息をつく間もなく、改札に元気な声が響いた。薄れた人の壁の向こうで、火原が元気に手を振っている。笙子は小さくお辞儀をして、そちらへ歩き出した。
ふたりは同じ電車路線を利用しているが、方向は逆なので同じ電車に乗ることはない。だが、時間が合えば、この改札で会うことがある。
最初は偶然だったが、それは今や必然に変わっていた。つまり、待ち合わせという必然に。
「――すみません、お待たせしてしまいましたか?」
笙子が尋ねると、火原は相変わらずの元気な笑いを浮かべた。
「ううん、すぐ前の電車で来たから。それじゃ、行こうよ」
「はい、先輩」
いつものように答え、笙子ははっとする。
並んで歩きながら、金曜日の彼の言葉と、昨日の菜美と香穂子の言葉を思い出す。
(……かずき、せんぱい……)
そう呼ぶのが嫌なわけではない。ただこの明るくて元気な先輩は眩しすぎて、つい気後れして、未だに話すだけで精一杯なだけなのだ。
今でさえそんな状態なのに、名前で呼んだりしたら、もっと近付いてしまいそうで。
恥ずかしいというのが一番の理由だけれど、怖いという感情もどこかにある。
でも…。
『無理です』と答えた時の、火原の悲しそうな顔も思い出すとつらい。
だい…じょうぶ…、香穂子先輩も一緒なんだもの…。
笙子は決意して、その言葉を呪文のように心の中で唱えた。そうすると、気がだいぶ楽になる。菜美の目論見は見事に当たったようだ。
笙子は静かに深呼吸をすると、火原を見上げた。
「あ、あの…、和樹先輩、今日、オケ部に行きますよね?」
「うん、そのつもり」
にっこり笑って答えた火原は、だが、次の瞬間、きょとんとした表情になった。
「…あ、あれ? 笙子ちゃん、今、”和樹先輩”って言った?」
「あ…、は、い…」
そこまでが笙子の限界で、彼女は身体を縮こまらせ、赤い顔で俯いてしまった。
その様子に、火原は驚きの表情を満面の笑顔に変える。
「ありがとう、嬉しいな」
「…そ、そうですか?」
「うん!」
少しだけ笙子が目線を上げると、そこにあるのは火原の嬉しそうな笑顔。ほっとして、心が温かくなって、…言ってよかったと思う。
微笑む笙子の手に、ふと温かい感触が絡む。
「あ…っ」
気付いた時には、笙子の手は、火原のひと回り大きな手に包まれていた。
「あの…」
「君が嫌じゃなかったら、学校までこうやって行かない?」
逆らいがたい笑顔でそう言われ、笙子は自然と頷いてしまっていた。
「……はい、和樹先輩」
「そっかそっかあ。冬海ちゃん、言えたんだー」
「はい。天羽先輩と香穂子先輩のおかげです」
昼休みの森の広場。お弁当をつつきながら、菜美と香穂子は笙子の報告を聞いていた。
笙子は終始、嬉しそうな微笑を浮かべていて、ふたりも我が事のように嬉しくなる。
火原の笑顔が人を元気にさせるのは周知の事実だが、笙子の笑顔も人を嬉しくさせると思う。その意味でも、ふたりはお似合いなのだろう。
だが、次の菜美の一言に、香穂子の笑顔は姿を消してしまった。
「で、香穂子はどうだった?」
ぎくりと彼女の身体が強張る。その反応に、菜美はぴくりと眉を吊り上げた。
「わ、私はその…」
「香穂子ー? さては、まだなのね」
「うう…」
香穂子がうつむく。
今朝、迎えに来てくれた時に呼ぼうとは思っていたのだ。けれど、学校までの短い時間の中、タイミングを逸してしまった。
柚木が何か急かすような言動をしたら言えただろうが、彼は普段通りだった。金曜のことなど忘れたかのように。
「情けないなー、もう」
「分かってるよ。帰りに絶対言います」
「…あの、香穂子先輩。頼りにならないかもしれませんけど、わたしがついてますから」
私は香穂子先輩がついてると思うと頑張れましたから、と告げる笙子に、香穂子はじーんときた。
「ありがとう、冬海ちゃん。私、がんばる」
「はい」
笙子が嬉しそうに笑う。目をきらきらさせて見つめ合う二人を、菜美は苦笑しながら眺めていた。
放課後、香穂子は早足で正門へ向かっていた。
もう辺りに人影はまばらだ。練習に夢中になりすぎて遅くなってしまった。
正門前広場に出ると、門の横に彼の姿が見える。多分、結構待たせているはずだ。そう思うと、香穂子の足は更に速まる。
そのためと、笙子達との約束のために、鼓動がさっきから落ち着かない。
…今度こそ、呼ぶんだからっ。
だが、近づくにつれ、よく見えるようになってきた柚木の顔は、なんだか不機嫌そうに見える。
待たせたからかと思ったが、それだけにしては、はっきり分かる―――と言っても、他の者には分からないだろうが―――ほど機嫌が悪い。
な…、何かあったのかな。よりによってこんな時に。
明日にしようかな、という思いがちらりと頭をかすめる。
いや、だめだめ。笙子ちゃんと約束したんだし。…よし、ここは先制パンチで行こう。
香穂子は決意すると、柚木に向かって走り出した。
柚木が気付いて、顔を上げる。香穂子はできるだけいつも通りに笑いかけた。
「お待たせしました、梓馬先輩」
言った瞬間、おや、というふうに柚木の眉が上がる。香穂子はかっと体温が上がるのを感じた。
やがて、柚木の口唇がおかしそうに笑みを形作る。
「ずいぶん遅かったんだね、”香穂子さん”?」
ぞわわっ。
香穂子は思わず引いてしまった。
「どうしたんだい?」
「そ、その呼び方、怖いですよ」
人前では『日野さん』と呼ばれるが、名前にさん付けをされるなんて、今までにない事で。しかも、含みのある口調で呼ばれれば、条件反射で怯えてしまうのも当然だ。
「そんな風に受け取られるなんて心外だな」
「……あの、思ってたんですけど、先輩、機嫌悪いですか?」
「どうして?」
「顔と声が怖いです」
その答えに、柚木は内心で肩をすくめる。
それなりに仮面をかぶっていたつもりだが、彼女には通じなかったらしい。
「そうだな。お前がもう一度呼んでくれたら、機嫌が直るかもしれないよ?」
「え…っ」
香穂子の顔が赤く染まる。
柚木には、何がそんなに恥ずかしいのか分からないが、その様子が可愛らしいから、まあいいかなどと思ってしまう。大概、毒されてきたらしい。
目線でもう一度促すと、香穂子は口唇をきゅっとすぼめた後、ゆっくりと言った。
「…どうかしたんですか、梓馬先輩?」
柚木がにっこりと笑う。
「よく出来ました―――と言いたいところだけど、お前、お仕置きね」
「え、な、何でですかあっ!?」
香穂子は思わず叫んでしまった。まだ残っていた生徒たちが何事かと振り返り、香穂子は慌てて両手で口を塞ぐ。
柚木を見上げると、彼は「馬鹿」と言わんばかりの顔をしていた。
「…ちゃんと呼んだのに、どうしてですか?」
小声で恨めしげに言うと、柚木は意外な一言を口にする。
「冬海さんより出遅れたから」
「えっ?」
目をぱちくりさせていると、柚木はため息をつきながら、長い髪をかき上げた。
「今朝、冬海さんが初めて火原のことを名前で呼んだそうだよ。おかげで、火原が舞い上がって大変だったんだ」
「あ、ああ…」
香穂子は納得して頷く。その様子が実際に見たように想像できる。
「なに、知ってたの。火原に会った?」
「いえ、笙子ちゃんから。今日、お昼を一緒に食べた時に聞きました」
「なるほどね。ま、そういう訳だから」
そういう訳って、どういう訳ですか〜。
突っ込みたいところだったが、やぶ蛇になりそうで聞けないでいると、聞くまでもなく柚木のほうから言い出してきた。
「三日後、全員で合奏する約束してたよな」
「は、はい…」
全員というのは、コンクール参加者の皆のことだ。三日後、皆で集まって、合奏をしようという約束になっている。コンクールが終わって以来、会う人には頻繁に会うが、会わない人とは疎遠になりかけていた。香穂子がそんな事を呟いたら、菜美が段取りを整えてくれたのだ。もちろん、記事にするつもりだろうが。
また、合奏だけでなく、セレクションでは演奏してない曲をソロで披露する予定にもなっている。
「お前、そこで『ラ・カンパネッラ』を弾け」
「ええ〜〜っっ!!」
香穂子は再び叫んでしまった。またまた生徒たちの視線が集まってくるが、今度は構っていられなかった。
「で、出来る訳ないですよ! 私、あの曲は苦手で…!」
曲は好きだから、最終セレクションで弾こうかと思ったこともある。だが、一日で挫折してしまった。あの技巧的なメロディとテンポの速さについていけなかったのだ。
「知ってる。でも、また練習始めたんだろ?」
「は、はい、それはそうですけ…ど」
あの頃より少しは上達したからと、一度挫折した曲に挑戦を始めたのは、昨日の夜からの話。
なんで知ってるのかと聞こうとして、自分が今朝話したのだという事を思い出した。
私の馬鹿〜。なんで、余計なこと言っちゃったんだろ〜。
頭を抱える香穂子に、柚木が悪魔のように綺麗な微笑みを浮かべる。
「それじゃ決まり。せいぜい練習しろよ」
「うう…、ひどい」
三日後のために練習していた曲もあるのに。下手な演奏―――技術はともかく、練習不足の曲、なんて、聞かせたくはない相手ばかりなのに。
だが、睨んだくらいで、どうにかなる相手ではなかった。
「お前が出遅れたせいで、俺は聞きたくもない火原ののろけ話に、延々と付き合わされるハメになったんだ。お仕置きの理由としては十分だろ」
「そんな〜〜」
大体、出遅れただなんて、別に競争していたわけじゃないのに……あれ?
ふと、香穂子の脳裏にひらめくものがあった。
「あの、先輩。もしかして、先輩が『名前で呼べ』とか言い出したの、火原先輩と関係あったりします?」
火原が名前を呼ばれたいと言い出したのが金曜日の朝。柚木が金曜日の帰り。
今まで気にしていなかったが、考えてみればタイミングが良すぎるような。
首を傾げる香穂子に、柚木はあっさりと答えた。
「きっかけではあったかな」
柚木のほうは、日野さん→日野→香穂子とそれなりの変遷があったものだが、香穂子は出会った時から一貫して「柚木先輩」だ。
だからどうという訳でもないが、変えてみてもいいか、くらいの気持ちで切り出した。
それが香穂子が過剰に反応するものだから、ついどうしても言わせてみたくなっただけで。
「それだけのために、私はお仕置きされないといけないんですか…?」
香穂子が情けなさそうな顔で柚木を見上げる。対して、柚木は静かに微笑むだけだ。経緯はどうあれ、一度言い出したことを撤回する気はない。
「さて、いつまでもここで話してても仕方ない。車も待たせっ放しだからな、行くぞ」
「あ、ま、待ってください」
身を翻した柚木を追いかけようとした香穂子は、その彼の背中にぶつかって、立ち止まる事を余儀なくされる。
「ぶっ。ど、どうしたんですか、急に立ち止まって…」
「これ」
「えっ?」
聞き返そうとして開いた口に、あめが放り込まれる。
驚いて飲み込みそうになったのを、なんとか堪えて柚木を見上げると、柚木は口唇の端を上げて笑った。
「頑張ってマスターするんだな。ピアノ伴奏は俺がしてやるから、恥をかかせるんじゃないぜ」
香穂子が目を見開く。
柚木がピアノを弾く事は知っていたが、彼は滅多にその腕を披露することはない。香穂子も一度も聞いたことがない。なのに、弾くと言ってくれて、しかも、伴奏をしてくれるという。
「先輩が、私の、伴奏をしてくれるんですか?」
確認のため、一字一字区切るように尋ねると、柚木は嫌そうな顔で彼女を睨みつける。
「そう言っただろう。まさか、不満なわけ? そんなはずないよな」
「な、ないです。…だって、先輩、滅多にピアノ弾かないのに。それも、伴奏してくれるなんて」
信じられないと顔中に書いて、柚木を見つめると、彼は意地悪な――でも、目元は優しい笑みを浮かべて言った。
「それは、名前で呼べたご褒美」
「え…」
「行くぞ」
香穂子が驚いている内に、柚木はさっさと車に向かっていった。
……ええと、つまり、嬉しかったって事なのかなあ。
香穂子は首を傾げて、柚木の後ろ姿を見つめ―――笑ってしまった。
少しは、火原先輩みたいに喜んでくれたらいいのに。でも、それも怖いかな。
その場でくすくす笑っていると、彼女がついて来ない事に気付いた柚木が振り返る。
「何をしてるんだ? 早く来いよ」
「あ、はいっ。…梓馬先輩」
香穂子は嬉しげな笑顔を浮かべて、駆け出していった。
<了>