。。。

 「「かんぱーい!」」

 レストランの一角で、賑やかな声が響き渡った。もっとも、賑やかだったのは、その席にいた二人ほどで、残りの面々は冷ややか、あるいは戸惑い顔、またはマイペースに飲み物を口に運んでいた。
  「ああ、もうノリが悪いなあっ。乾杯は景気よくいかなくっちゃ」
 賑やかな内の一人、天羽がコップを掲げて、場をぐるりと見回す。
  「は、はい…。すみません」
  「……はい……」
  「…………」
  「…………」
  「―――駄目だわ、これは」
 天羽が肩をすくめて、手にしていた烏龍茶を飲む。隣で香穂子がくすくすと笑った。
  「ふふ、いいじゃない。こうして、みんな集まってくれたんだし」
 みんな、という言葉の通り、その場には、日野、土浦、天羽、月森、志水、冬海。つまり、3年を除くコンクール参加者+一人が集まっていた。
 今日は、天羽発案、香穂子主催によるコンクールの打ち上げの日なのだ。
 どうにか月森と土浦も引っ張り出し、柚木と火原は授業の関係で遅れるが、まもなく来る予定だ。
  「まあね。ふふん、さすが普通科の星。よく皆を引っ張り出してくれたわね」
  「大変だったよ。…でも、まあ、私もコンクールが終わったら、まったく関係がなくなっちゃうのは寂しいしね」
  「そうだね。コンクールは、私にとってもいい勉強になったよ」
 満足げに笑う天羽に、香穂子は頷きを返す。
 強引な取材に困惑した事もあったけれど、完成した記事はコンクールの趣旨をよく汲んだいい記事だった。
 自然と優しい気持ちになる。ところが、そう思ったのも束の間、天羽が意味ありげな目つきで香穂子を見た。
  「な、何?」
  「でさあ、あんたどうなのよ」
  「へ…、どうって……」
 らんらんと輝きだした天羽の瞳に、香穂子は嫌な予感を覚えながらも聞き返す。
  「だからあ、ヴァイオリン・ロ・マ・ン・ス♪」
 ウィンクしながら肘で小突いてくる天羽に、香穂子はげんなりとした表情になった。
  「天羽ちゃん、今日は、取材禁止って言ったでしょ」
  「取材じゃないもーん。友人としての興味だもん」
  「同じだよ」
 香穂子はため息をつく。
 ヴァイオリン・ロマンス。コンクールを通じて恋が実るという伝説。憧れと共に語り継がれてきたそれが、今年は現実のものとなった。
 コンクールが終わった今、天羽の興味はそちらに向けられるようになり、当事者の香穂子としては困るやら照れるやらだ。
 …本当に奇跡だよね。
 本当なら、言葉をかわす事もなかったかもしれない人。
 それが今では、誰より近い場所にいる。
  「香穂子〜? なに赤くなってるのかなあ?」
 にやにやと嫌な笑いを浮かべた天羽に覗き込まれ、香穂子は慌てて咳払いした。
  「…っっ、い、いいから、その話はやめようよ。今日は打ち上げが目的なんだから」
  「はいはい。それじゃ、また今度ね」
 天羽はさっぱりした性格だから、引き際もさっぱりしている。香穂子がほっと息をついたとき、隣では違う抗争が勃発していた。
  「―――なんだ、音楽科は違うとでも言いたいのか」
  「そんな事は言っていない。そう感じるのは、自分でそう思っているからじゃないのか」
  「なんだと?」
 もはや恒例になりつつあるLRコンビだ。二人とも箸を持ち、口周りにドレッシングがついたイマイチ決まらない格好だが、雰囲気はびりびりと張り詰めた緊張感を漂わせている。
  「やれやれ」
 香穂子と天羽は同時にため息をつき、ちょうど運ばれてきた二杯目のグラスに口をつけた。
  「ちょっと月森君、土浦君〜。こういう場まで来て、それはやめなさいよ。コンクールで、お互いの実力は認めているはずでしょ」
  「それは……」
 天羽の言葉に、二人が言葉を詰まらせる。
  「ほらほら、睨みあうのやめて。楽しく飲もうよ」
  「「…………」」
 二人は互いに視線をそらし、自分のグラスをあおった。これまたカルピスとジンジャーエールでは格好つかないが、ひとまず険悪な雰囲気は去った。
  「やれやれ、相変わらずだわね。ねえ、香穂子」
  「…………」
  「…香穂子?」
 いつの間にか香穂子の顔は真っ赤になっていた。
  「ちょっと、どうしたの?」
 驚いて尋ねると、香穂子はとろんとした眼で天羽を見返す。
  「ん〜? なあに〜〜?」
  「ちょっとちょっと! 冬海ちゃん、この子どうしたの?」
 明らかな挙動不審ぶりに、天羽が慌てて冬海を振り返ると、彼女は怯えたように身をすくませた。
  「…す、すみません、私にもよく…。ジュースを飲んでいただけなんですけど……」
  「ジュース?」
 言われて見ると、香穂子の手元には3分の2ほど空になったグラスが握られている。
  「…ちょっと香穂子。これアルコールじゃないの?」
  「ええ〜? だって、ミルクって書いてあったよお」
 香穂子の異変に気付いた土浦がそのグラスを覗き込み、眉をひそめる。
  「ミルクって…。おい、カルアミルクじゃねえか。カクテルだぞ、これは」
  「ええ〜〜。違うよお、甘いもん」
 完全な酔っ払いとなった香穂子はへらへらと笑って、グラスの残りを一気にあおった。
  「うわ、馬鹿!」
 土浦が慌ててグラスを取り上げるが、既に中身は香穂子の腹の中だった。
  「あ〜も〜、土浦くん乱暴だよ〜。でも、もう飲んじゃったもんねー」
 得意げに笑う香穂子に、土浦と天羽は深々とため息をついた。
  「あ〜あ。完っ全に、酔っ払ってるわ」
  「ったく、しょうがねえな。ほら、水でも飲んどけ」
 土浦が氷水のグラスを香穂子に差し出す。すると、急に香穂子が真剣な眼差しで、土浦を見上げた。
  「…ありがとう、土浦君」
  「な、なんだいきなり」
  「土浦君って優しいよね」
  「はあ?」
  「私、土浦君には感謝してるの。いきなりコンクールに参加することになって、どうしたらいいか分からないときに力を貸してくれて」
  「お、おう…。そりゃどうも」
  「本当にありがとうっ」
 香穂子がいきなり土浦ににじり寄り、ぎゅっと手を握り締めた。
  「うわあっ。こら、お前、相当酔ってるだろっ」
  「―――くだらない」
 不意に月森が不快な音を立ててグラスを置く。
  「付き合っていられないな。俺は帰らせてもら―――」
  「月森君っ」
  「うわあっ」
  香穂子に勢いよく抱きつかれ、月森が慌てた声を上げる。
  「月森君もありがとう。冷たく見えるけど、本当は優しいよね」
  「ま、待て、日野…っ」
 さすがに月森も香穂子を扱いかね、助けを求めるように周囲に視線を送った。だが、焦る月森が面白いらしく、誰も止める人はいなかった。
  「月森く〜ん♪」
  「日野っ!!」
  「―――あ〜、盛り上がってるね!」
 助けか、はたまた追い打ちか。場違いなほど明るい声が、その場に降ってきた。
  「火原先輩! と……」
 場がしんと静まり返った。
  「ゆ、柚木先輩……」
 誰かが引きつった声で呟く。
 ゆったりとした足取りで現れた柚木は、神々しいまでに綺麗に微笑んだ。
  「日野さんはどうしたの?」
 香穂子は柚木が来たことにも気付かず、月森に抱きついたままご満悦の表情だった。
  「あ〜、い、いえ、その……。間違えてお酒を飲んでしまったみたいで……」
 天羽が必死で香穂子を小突くが、彼女はくすくすと笑うばかりだった。
  「ええっ! 日野ちゃん、大丈夫?」
  「それは大変だね。もう家に帰ったほうがいいね」
 柚木は笑顔を崩さないまま、香穂子の横に膝をついた。
  「日野さん、大丈夫?」
  「う〜ん……」
 香穂子は目を閉じ、既に寝る態勢に入っている。
  「大丈夫…じゃないみたいだね。僕が送っていくよ」
 柚木は香穂子を月森から引き剥がし、ひょいと抱き上げた。
 軽々とした動作に、意外に力があるのだと皆が驚く。
  「それじゃ、月森君。迷惑をかけて悪かったね」
  「い、いえ」
  「それじゃ皆は楽しんでいて。ごめんね」
  柚木は身を翻し、悠々と店を出て行った。
  「………………―――」
 火原と志水を除いた4人が脱力したように肩を落とす。
 皆、嵐が去ったというような、ほっとした顔をしていた。
  「はああ〜〜。…ん? 冬海ちゃん、顔が青いよ」
  「い、いえ……」
 冬海が反射的に俯くが、すぐに恐る恐る天羽を見返した。
  「なんだか、さっきの柚木先輩。怖い気がして……」
 「ああ……」
  「あ、す、すみません。おかしな事を言ってしまって」
  「いや……、私もそんな気がしたから」
 微笑は決して崩さなかったが、『目が笑っていない』とは、ああいう表情を言うのだろう。見渡すと、月森と土浦も冷や汗を拭っていた。
  「とりあえず、飲み直しましょうか」
 天羽は自分のグラスを持ち直し、力なく乾杯の動作をした。


 「えへへ〜、柚木せんぱ〜いvv」
 店を出た柚木は暗くなった街を足早に歩いていた。その間も香穂子は慣れた子猫のようにじゃれついてくる。 まだ酔いはさめておらず、柚木の冷たい眼差しにもまるで気付かない。
  「とりあえず、酔いを醒まさせないとどうしようもないな」
 柚木はちっと舌打ちし、歩きながら辺りを見回した。
 しばらく歩くと、ちょうど誰もいないバス停が目に留まる。うまい具合に、自動販売機も横に据えられていた。
 柚木はベンチに香穂子を下ろし、自動販売機でミネラルウォーターを買った。
  「んふふ〜」
  そして、そのミネラルウォーターを、まだ幸せな夢の中にいる香穂子の顔に容赦なく浴びせかける。
  「…ごほっ、けほんっ!」
 さすがに香穂子も飛び起き、喉に詰まった水に激しく咳き込んだ。
  「うわ〜ん、何これ…。はれ……、柚木先輩」
 香穂子が仁王立ちしている柚木をきょとんと見上げる。
  「目が覚めたか」
  「え〜、先輩、えと……」
  「飲め」
 柚木が半分ほど残ったミネラルウォーターを香穂子に差し出す。香穂子は未だ訳が分からなかったものの、とりあえず言われるまま渡された水を飲んだ。
 ここ、どこだろ。えーと、確か打ち上げしてて、ミルクを頼んで……。
 香穂子の動きが固まった。
  「思い出したか?」
 柚木の絶対零度の声が降ってくる。
 やばい、やばい、やばい。
  「え…と、その……」
  「思い出したんだな?」
  「………はい」
 柚木がため息をつく。
 香穂子は急速に醒めていく酔いを感じながら、刑を言い渡される罪人のような気分で、それを聞いた。
 あ〜、私の馬鹿〜。よりによって、先輩の前で月森君に抱きついたなんて…。ううう、何言われるんだろう。
  「今後、一切酒は禁止だ。いいな?」
  「はい……」
  「よし。それじゃ、帰るぞ。ちゃんと自分で歩けるな?」
 「えっ?」
 身構えていた香穂子は、戸惑ったように柚木を見上げる。
 絶対に、何か言われるかされるかすると思っていたのに。
  「せ、先輩、怒ってないんですか? …よ、良かったあ〜〜」
 香穂子が心底ほっとした息をついた時、柚木は実に綺麗な笑みを浮かべた。
  「何を馬鹿な事を言っているんだ?」
  「え?」
 香穂子の笑みが引きつる。
  「俺がお前を送っていったことは、皆が知っているからな。明日、お前が休んだり、様子がおかしくなったりしていたら、俺が何かしたと思われるだろう?」
  「……え…と」
 香穂子の額を冷や汗が流れる。その彼女の耳元を、柚木の吐息と微かな唇の感触がかすめていった。
  「今週の土日は空けておけよ?」
 悪魔の宣告を残し、柚木は悠然とした足取りで歩き出した。
 「香穂子、早く来い。送るから」
 「…………はい」
 香穂子はショックでふらつく足を引きずりながら、柚木の後をついていった。



<了>


土日に香穂子がどうなったかは、あなたの心の中で…(笑)。


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