私には友達がいる。
普通科から学内コンクールに異例の抜擢を受け、しかも見事に総合優勝を果たした、今や時の人。日野香穂子。
私は取材を通じて彼女と知り合い、彼女からたくさんのものをもらった。
想いを形にする事。想いを人に伝えるという事。
知り合って、まだ二月くらいだけど、付き合った時間なんて問題じゃない。
彼女は私の親友だと言える。彼女を見ていると、私も夢に向かって走る勇気が湧いて来る。これから先も、ずっと付き合っていきたいって思う子なんだ。
彼女がまた何かすごい事をやらかしたら、真っ先に取材に行くつもりだよ!
「あっ、天羽ちゃん」
「ん、香穂子? おはよー…って、あんた!」
廊下で香穂子に声をかけられた私は、振り返って唖然とした。
香穂子が立っている。それはいいのだが、その髪ときたら、サイドの髪を少し上目で結んで、黄色いリボンをつけるというもの。こんな髪型、普通、小学生までしかしない。
じろじろと見ていると、香穂子が恥ずかしげに顔を伏せる。
「あんまり見ないで。それと、大きな声出さないで…」
「だって、あんた、その髪…」
「分かってるから」
ううう、と香穂子は情けない顔をして目を閉じる。その様子に、私は何か感じるものがあった。
そういえば、このリボン、どこかで見た覚えがある。一目で高級素材と分かる光沢のあるこれは―――…。
「あんた、そのリボン、柚木さんの……」
「だから、言わないでってば」
やっぱり。
「なんで、そんな事になったのよ」
私は声をひそめて聞く。廊下で話してたせいもあって、通り過ぎる人が皆、香穂子の頭のリボンを見ていっている。
「これはその…」
「あの人が、また何かしたわけ?」
「うう…。まあ、その…、まあね」
「何よ、そのはっきりしない態度は」
私はいらいらと呟き、そして、決めた。
絶対、聞き出してやる!
「香穂子、ちょっとこっちに来なさいよ」
「え? でも、授業始まっちゃうよ?」
「大丈夫。あんたのとこの担任は今日休みらしいから。私のほうも気にしなくていいし」
「そうなんだ。さすが、情報通だね」
「という事で来るのよ」
「天羽ちゃん、引っ張ったら痛いって」
香穂子が抗議するのも構わず、私は彼女を校舎の奥へ連れて行った。
「はいいー? 志水君と練習室にこもってたからー?」
私が思わず声を上げると、香穂子が慌てて口元に人差し指を当てる。
「しーっ! 声が大きいってば」
「だって、あんた、それ…。合奏してただけなんでしょ?」
「うん。練習室に行ったら、ちょうど志水君に会って、音を合わせようって話になったの。うまく音が乗ってね、すごく楽しかったんだよ」
香穂子が嬉しそうに笑う。この子は、楽器の事となると、本当にいい顔をする。
が、その笑顔はすぐに曇ってしまった。
「普通なら、そこまで怒らないんだけど、その時は先輩、家の用事で早く帰ってたから。先輩のいない間に、ってとこが気に入らなかったみたい」
香穂子は深々とため息をつく。私もつられてため息をつく。
つまりは、そのリボンは所有権の主張、というわけだ。
わざと目立つようにリボンをつけて。柚木がこのリボンをしているのを見た事がある者は、すぐに彼を思い浮かべるだろう。
―――もっとも、あのおとぼけ少年の志水に通じるとは思えないが。
どちらかといえば、香穂子を困らせるほうが目的なのかもしれない。
私は、もう一度ため息をついた。
彼のことは前々からあやしいと思っていた。誰にも分け隔てなく優しいという事は、誰にも優しくないという事に他ならない。
でも、ここまで裏のある人だなんて! しかも、それが香穂子の恋人だっていうんだから、始末が悪いわよ!
私がふつふつと彼に対する怒りを湧き上がらせていると、香穂子がそんな私をおそるおそる覗き込んできた。
「あの、今の話は誰にも言わないでね。先輩にもだよ。ほんとは話しちゃいけない事なんだから」
「………なんで、あんたがそこまで気を使ってるのよ」
ぷつり、と私の中で何かが切れた。
「ちょっと、香穂子。それ貸しなさい」
「な、何…。あ、だめ、取らないで!」
私が伸ばした手を、香穂子は後ずさって避ける。
「なんでよ、嫌なんでしょ?」
「一日取っちゃいけない事になってるの」
「なんで、そんな事、大人しく聞く必要があるのよ。まさか嬉しいわけ?」
「嬉しくないよー、恥ずかしいもん」
「ああ、良かった。嬉しいといわれた日にはどうしようかと思ったわよ」
「天羽ちゃん、声が怖い…」
「当たり前でしょっ。いい加減、私も腹立ててるんだからっ!」
私はとうとう叫んだ。
―――柚木梓馬。
優しくて雅で賢くて御曹司という、まさにケチのつけようのない学園のプリンス。
それが、香穂子にはこうだなんて、誰が信じるだろうか。
私だって信じたくない。でも、今日の彼の所業はまだ可愛いほうだ。
いつだったか、香穂子が赤い目をして登校してきた事がある。
『なんでもないよ』と言い張る彼女に、目が赤い事を指摘すると、『本当のこと言われただけ』と弱々しく微笑んだ。
さらにいつだったか、二人で一緒に買い物の計画を立てていたのを、強引に中止させられたこともある。
さらに前―――…。と、挙げればきりがないが、万事、こんな調子なのだ。
「…あんたはもー、なんでそんな人と付き合ってるのよ」
「なんでって……」
「悪いこと言わないから、さっさと別れちゃいなさいよ」
「えええ? 嫌だよっ」
香穂子が目を見開く。だけど、私は今日こそ引く気はない。ここで言わないと、このお人よしはどこまでも付け込まれる。
「こう言っちゃなんだけど、柚木さんがあんたの事を真剣に想ってるとは思えないわ」
「天羽ちゃん、何言い出すの?」
「柚木さんのあんたに対する態度よ。まるで、おもちゃ扱いじゃないの」
私は指を突きつけつつ言ってやった。ちょっとキツイかと思ったけど、これくらい言わないときかないだろう。
と思ったら、香穂子はなぜかほんのりと頬を染めた。
「それは…、もうないよ。まあ、確かに遊ばれる事もあるけど、なんというか、それは…、ただの遊びだし」
「ただの遊びと、本当の遊びとどう違うわけ?」
「それは違うでしょう。天羽ちゃん、今日、ほんとに怖いよ」
「私は、あんたが心配なのよ。いっつも、こんなふうに困らされたり泣かされたりさ。柚木さんが、あんたを大事にしてくれてるって信用できない」
香穂子がああ、と笑う。
「その気持ちは嬉しいけど、心配しないで。私は大丈夫だから」
「…あんたは、柚木さんを信じるってわけ?」
「うん」
香穂子は当然のように微笑む。その顔は幸せそうで、私もこれまでは納得していた。
でも。
「どのへんが?」
もー、我慢できないの。これ以上、香穂子で遊ばれてたまるもんですか。
「いや、どのへんがって言われても困るんだけど…」
「大事にされてる自信があるなら答えられるでしょ?」
「それはねえ…。うーん、言葉で説明するの、難しいよ。でも、私、分かるから」
私は頭を抱えた。
だめだ、これは。完全に騙されてる。
「香穂子…。私、やっぱり納得できないわ」
「え?」
「これ、もらうわよっ」
言うが速いか、私は香穂子の髪のリボンを引っ張った。
「あっ!」
「あんたは教室に戻んなさいっ」
私は音楽科校舎へと走った。彼に黄色いリボンを叩きつけるために。
「―――やれやれ。急に訪ねてきて、何を言うのかと思ったら…」
屋上の手すりにもたれながら、柚木梓馬はふんわりと優雅な微笑みを私に向けた。
だが、そんな笑みにはもうだまされない。
「笑ってごまかしても駄目ですよ」
私は手の中の黄色いリボンを、彼に突きつけていた。
「ごまかすだなんて。君にはそんなふうに思われているんだね」
柚木さんがふっと目を伏せる。その色気たるや、女ならイチコロだろうと思わせるほどだ。だが、あいにく私は気品ある美形はタイプじゃない。
「悲しい顔でごまかすのも駄目ですってば。ここには親衛隊の皆さんもいませんからね。加勢の手は入りませんよ」
「そうだねえ。わざわざそういう所に呼び出したんだものね」
柚木さんがくすりと笑った。それまでと表情は変わらないのに、雰囲気ががらりと変わり、私は身構える。
「君―――、香穂子の友達だったね」
「そ、そうですよ、親友です」
思わずどもってしまったのが悔しい。
「だから、放っておけないわけだ。自分の手が及ばないことをね」
「…何が言いたいんですか?」
「君の友情は美しいけれど、これは僕と香穂子の問題だしね」
つまり部外者だという事か。
「香穂子の問題は私の問題です。柚木さんもそう思ってるんじゃないですか?」
「うん?」
「私と香穂子の問題は、自分の問題だって」
柚木さんが機嫌良さそうに笑う。
「なるほどね」
「――…柚木さん、本当に香穂子が好きなんですか?」
私は意を決して言った。この人には遠回しな言い方をしても、流されるだけだろう。
柚木さんにその思いが伝わったのかどうかは分からないけど、彼は私を振り返って口を開いた。
「もちろん」
私ははっと彼を見返す。
「世界で一番可愛がってるよ」
「………っ!!!」
瞬間、私は爆発した。
「やっぱり、香穂子のこと、おもちゃか何かだと思ってるんですね!」
「天羽さん、急に大声を出したら驚くじゃないか」
柚木さんが澄まして言うのが、ますます私の癇にさわった。
「私っ、認めませんからね。これ以上、香穂子にひどい事はさせません」
「別に、君に認めてもらおうとは思っていないよ。さっきも言ったけど、これは僕と香穂子の問題。君が自分の問題と考えるのは自由だけれど、僕流の愛し方にけちをつけるのはやめてほしいな」
「そんな愛し方、分かりませんよ!」
「構わないよ」
柚木さんはゆったりとした動作で、手すりの向こう――正門のほうに目を向けた。
「―――…香穂子だけ、分かってくれればね」
え?
慌てて顔を上げると、すでに柚木さんは私に背を向けていた。
その表情は見えない。
柚木さん……。
聞き間違いかと思うほどの小さな声だった。おそらく、彼も私には聞こえていないと思っているだろう。でも、私の耳は聞き逃さなかった。
ひどく真剣で、切なげな声。私は彼のそんな声を初めて聞いた。
動揺して、思わず彼から視線をそらした時、ぱたぱたとかすかな足音が耳に届いた。
はっとして入口の扉のほうに目を向ける。足音はどんどん大きくなり、やがて扉がばたんと開かれた。
「香穂子っ」
私は声をあげ、柚木さんも振り返った。
「ここにいたんだ〜。やっと見つけたよ」
天羽ちゃん、足が速いんだから、とのん気に笑う香穂子を、私は少し複雑な気持ちで見つめた。
「香穂子……」
「天羽ちゃん」
そんな私を、香穂子はまっすぐに見つめる。
「私の事はほんとに心配いらないから。でも、ありがとう」
そして、柚木さんに視線を移す。
「先輩、あの…」
「香穂子」
柚木さんが香穂子の言葉を遮るように呼びかけ、彼女に向かって歩き出した。
そして、私の横を通り過ぎる時、私の手から黄色いリボンを奪っていく。
「駄目じゃないか、ほどいちゃ」
「うう…、はい」
「ほら、ここに立って」
香穂子は赤くなりながら、柚木さんの側に寄った。そんな彼女の髪に、柚木さんはリボンを結ぶ。
「ま、今回は多目に見てあげるよ。ちゃんと放課後までつけてるんだよ」
「……はい」
香穂子が頷く。困っているけれど、それを受け入れようという愛のこもった表情で。
何だか入り込めない雰囲気で。
私はふと香穂子の言葉を思い出す。
『言葉で説明するの、難しいよ。でも、私、分かるから』
…柚木さんは香穂子にだけ分かってもらえればよくて、そして、香穂子はちゃんとそれを分かってるっていう事か。
なんだか力が抜けた。まだわだかまるものはあったけど、怒っていたのが馬鹿馬鹿しくなった。
私はそっと二人の横を通り過ぎ、屋上から出て行った。
階下に降りると、妙に風が清々しかった。屋上のほうが風通しはいいはずだけど、やっぱりあの雰囲気に押されていたんだろう。
私は、ひとつため息をつく。
「おせっかいだったって事か」
柚木さんの事はやはり腑に落ちないけど、香穂子なら確かに大丈夫なんだろうと思えた。
「柚木さんにあんなこと言わせる子だもんね」
初めて聞いたと思った、彼のあの声。聞いた瞬間、凍りついたように言葉が出なくなった。それも仕方ないだろう、あれは彼の「本気」の声だったんだから。
「…ま、せいぜい苦労してくださいな」
私は屋上にいる恋人たちに向けて、そっと呟いた。
<了>