屋上にて

 昼休み、香穂子と柚木は屋上でお弁当を食べていた。
 他に人影はない。屋上は風が強くてほこりっぽいので、ごはんを食べる場所としては敬遠されているのだ。食事が済んだ後にやってくる生徒は何人かいるが、昼休みに入ったばかりのこの時間は、まず人は来ない。
 というわけで、今、屋上には二人しかいなかった。
 「きゃあっ」
 香穂子が突然叫ぶ。風に髪があおられて、香穂子の顔面を思い切り打ったのだ。
 「痛い…」
 「何をやってるんだ」
 間髪入れずに呆れ返った声がかけられて、香穂子はむくれる。
 いつもの事だが、そもそも、こんな風の強い屋上で食べようと誘ってきたのは、彼ではないか。
 「髪が目に入っちゃったんですっ。笑わないでください」
 睨みつけるその人は、きれいな紐で、きちんと髪を結わえている。
 「笑ったりしてないだろ」
 「声が、『お前は馬鹿か』って言ってました」
 「それはその通りだな」
 香穂子はぷいっと横を向く。彼のこんな言葉にいちいち反応しても仕方ないとは思うが、さらっと流すなんて器用なまねは、彼女には出来ないのだ。
 そんな彼女を見て、柚木は今度こそ笑う。
 「ほら、貸してやるよ」
 隣に置いていた鞄から新しい組紐を取り出し、香穂子に渡す。
 「あ、ありがとうございます」
 香穂子は多少戸惑いつつ、その紐を受け取る。上品な色合いの綺麗な組紐だ。きっと高価なものだろうと思うが、値段を聞いたら使う気がなくなりそうなので、何も言わずにそれで髪を結んだ。
 それにしても…、と香穂子は横目で柚木を見る。用意が良すぎる気がする。屋上に誘った時から、こうなる事を見越しておいたんだろうか。更に疑うなら、それで慌てる私が見たくて、屋上に誘ったとか。…ありえる気がする。
 「何をぼーっとしてるんだ、香穂子」
 「え、あっ…」
 柚木の声で我に返った途端、香穂子は口元まで持ってきていたコロッケを落としてしまった。幸い、お弁当箱の中に落ちたが、柚木の視線が更に冷たくなるのは避けられなかった。
 「子供か、おまえは」
 「…ごめんなさい」
 別に謝る必要もないが、とっさに口から謝罪の言葉が漏れる。慣れって怖いなあ、と香穂子は小さく肩をすくめた。
 「ほら、口にソースがついてるぞ」
 「えっ、本当ですか?」
 「嘘を言ってどうする。下唇についてる、さっさと拭え」
 「
…先輩こそ、お母さんみたい…
 「何か言ったか?」
 「何でもありませんっ」
 香穂子はぶんぶんと首を振り、ごまかすように口元に手をやった。
 指先で下唇をついっとなぞり、ついたソースをぺろりと舐める。それを見ていた柚木の動きがふと止まる。
 香穂子の仕草が妙に官能的で、思わず彼女の口唇に目がいった。
 「……先輩、どうかしましたか?」
 柚木の視線に気付き、香穂子が首をかしげる。
 「…別に」
 柚木は不自然に見えないように視線をそらした。が、声にはいくらか不機嫌な響きが交じっている。
 一瞬とは言え、彼女の仕草に気を取られ、しかも、それを彼女に気付かれた事が気に入らない。
 「先輩、なんですか? ちゃんとソースは取りましたよ」
 ずれた言葉を返してくる香穂子に、更に不機嫌が増す。
 何か嫌味のひとつでも言ってやろうかと、彼女の顔を見返し――、ふとある事を思いつく。
 きっと彼女は嫌がるだろう。いや、間違いなく嫌がる。そう思うと、柚木はあっさり浮かんだ考えを実行に移す事を決めた。
 「まだついてる」
 「ええ? もう、鏡、鏡は……」
 「俺が取ってやるよ」
 「え?」
 柚木は優雅な所作で立ち上がり、きょとんと顔を上げた香穂子の前にかがみこんだ。
 そして、ぺろりと彼女の口唇を舐める。
 「…………っっ!!!」
 声にならない叫びを上げ硬直する香穂子に、柚木は実に綺麗に微笑んだ。
 「はい、取れたよ」
 「な、な、何をするんですかっ!」
 ようやく硬直が解け、香穂子が叫ぶ。その反応に、柚木はすっかり満足した。
 「みっともない口してたから、綺麗にしてやったんだろ?」
 「こんな事しなくたっていいじゃないですかっ!」
 「うるさいよ、声が大きい」
 誰のせいですかっ、と叫びたいのを、香穂子はかろうじて飲み込んだ。どうせ何を言ったって反省なんかしやしない。むしろ、面白がるだけだ。
 …それにしても…、口唇こそ触れなかったものの、今のはキス…に入るだろう。
 落ち込む香穂子に、さらに柚木は爆弾を投げかけた。
 「ところで、香穂子。お礼の言葉がまだだけど?」
 「は? お礼?」
 「そう。取ってあげたお礼」
 「……………」
 いったんは落ち着かせた香穂子の怒りが、再び膨れ上がった。
 「なんで私がお礼言わないといけないんですかっ!」
 だが、柚木は口唇の端を上げるだけで。今度こそ、香穂子は切れた。
 「私、教室に戻ります」
 お弁当箱を適当につかみ、勢いよく立ち上がる。そこで、ようやく柚木は笑いを引っ込め、同じように立ち上がった。
 「そう怒るな」
 「怒るに決まってるじゃないですか。ひっ、人の口唇をなんだと思ってるんですか!」
 「そうだな、悪かった」
 柚木がすんなりと謝罪の言葉を口にする。まさかそうくるとは思っていなかった香穂子は虚を突かれ、身体の力が抜けた。
 それが命取りだった。
 「ちゃんとしたの、してやるよ」
 「――――!!」
 香穂子の声にならない悲鳴が屋上に響く。
 
 こんな感じでも、ふたりにとっては穏やかな昼休みだった。

 

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