。。。

 柚木は屋上で空を見ていた。
 人に囲まれるのに疲れるとここに来る。それが、とうとう3年間変わらない行動様式になってしまった。
 妙に可笑しくて、柚木は口唇の端を吊り上げて笑う。
 だが、最近はその回数が減った。もっと効果的な休息方法を見つけたからだ。ただし、残念ながら今は側にいない。
 そんなことを考えていると、ばたばたと騒がしい足音が屋上への階段を上がってくるのが聞こえた。
 柚木の目が不快げに細められる。
 他人の足音は休息の終わりの時間だ。
 だが、扉が開き、仮面をかぶる準備を始めた柚木の前に現れたのは、その必要のない唯一の人物だった。
 「あ、やっぱりここにいたんですね」
 香穂子が息を弾ませながら、扉の向こうに立っていた。
 「お前か」
 ふっと柚木の力が抜ける。ついでに、それまでの鬱々とした気分も抜けていった。これは彼女だけが成しうること。
 だが、そんな思考の推移などおくびにも出さず、柚木は口を開いた。
 「わざわざ俺を探していたのか? 一体、何の用だ」
 「これを渡しに来たんです。天羽ちゃんから預かった写真です」
 「天羽さんから?」
 柚木は香穂子が差し出した封筒に目を落とす。ずい分と分厚い。
 「コンクールの記事用に撮った写真だそうです」
 「ああ。そういえば、報道部がそんな物を撮っていたな。ふうん」
 封筒を受け取って写真を取り出し、ぱらぱらと目を通していく。
 練習しているところ、楽器の手入れをしているところ、公園で演奏しているところから、いつの間に…と思うものまで、様々な場面が写っていた。
 だが、どの写真でも自分は同じ顔をしている、と柚木は思った。
 誰にでも優しい、優等生の顔。
 そういう写真を見るのは嫌いではなかった。目論見どおりの結果を出している自分に達成感を感じるから。だが、同時にひどい虚無感も感じる。
 柚木は小さく息を吐いて、写真を封筒に仕舞った。ふと横を見ると、香穂子が熱心に写真を眺めている。
 「お前ももらったのか?」
 「はい。こんなに撮られてるなんて知らなかったです」
 「どれ、見せてみろよ」
 「えっ」
 香穂子が慌てて顔を上げる。その隙に、柚木は彼女の手から写真の束を奪っていた。
 「あーっ! ちょ、ちょっと待ってください。見るなら、変な写真がないか調べてから…」
 「いいから」
 柚木は構わずにその写真を、彼女の手が届かないところまで持ち上げた。それでも取り戻そうと手を伸ばす彼女に、代わりに自分の写真を渡す。
 「それ見せてやるから、いいだろ?」
 「うー…」
 香穂子は不満そうに口を尖らす。だが、柚木の写真も見たかったらしく、取り戻すのを諦めて、渡された写真を見始めた。
 柚木は満足げに笑い、自分も奪った写真に目を通し始める。
 練習場面、演奏場面、写っているのは自分と大差ないシーンばかりだった。だが、見ているうちに自然と笑いがこみ上げてくる。自分とは対照的に、彼女は撮られる度に顔が違う。
 「な、なに、笑ってるんですか?」
 「ん? いや、何でもない」
 「もしかして、変に写ってるんですか?」
 「いや―――、…ああ、そうだな、面白い顔してる」
 「うそっ」
 香穂子が顔色を変えて、柚木から写真を奪い返そうと手を伸ばす。それを軽いステップでかわしながら、柚木は彼女の慌てた顔を見つめた。
 ま、本物のほうが、ずっと面白いけどな。
 「先輩、返してください〜〜」
 「代わりに、俺のを見せてやったろ。もう見終わったのか?」
 「まだですけど、もういいですよ。…なんだか先輩じゃないみたいだし」
 「うん?」
 引っかかるものを感じて聞き返すと、香穂子は自分の言葉にはっとしたように口元を押さえた。
 「あ、いえ、よく撮れてると思います」
 「誉め言葉には聞こえないね?」
 「いえ、あの」
 香穂子はしばらく言葉を探しているようだったが、諦めてひとつ息をついた。
 「いつもの先輩と、全然違うんですもん」
 「…ふうん」
 その返答を意外に思いつつも、納得している柚木自身がいた。
 こんな澄ました顔、彼女の前では久しくしていないのだから。
 いや、それだけではなく、他人が一緒にいるときでも、彼女はいつも仮面の下の顔を見てくれているのかもしれない。
 それは悪くない心地だった。
 だが、そんな事を素直に言う彼ではなかった。
 「写真より本物のほうがいいって事か?」
 からかうような口調で言うと、香穂子はぐっと詰まり、赤くなった顔で柚木を軽く睨む。
 「先輩は、すぐそういう事を言う」
 お前の反応が楽しいからだよ、と囁くと、香穂子はさらに赤くなった。当然、何か言い返してくると予想したが、香穂子はふと真面目な顔になって俯いてしまった。
 「…でも、そういう事になります、ね。今の先輩のほうがいいです」
 柚木が軽く目を見開く。この反応は予想していなかった。
 そう素直に反応されると、こちらも対応に困るじゃないか。
 「…そう。それじゃ、期待に応えないとね」
 「え?」
 と香穂子が呟く隙もあらばこそ。柚木は香穂子の後ろから腕を回し、彼女の顎に手を当てて後ろに反らさせた。
 当然、香穂子の視界には、上から覗き込んでいる柚木のアップが映る。
 「せ、先輩、何ですかっ?」
 「本物のほうがいいんだろ? じっくり見て構わないぜ」
 「もー、先輩〜〜〜///」
 可愛い抗議に意地悪な笑みを返しながら、柚木は思う。

 ―――お前の目に、俺はどう映っているんだろうな。
 それは俺には見えない。けれど、写真には撮る者の心が反映されるというから、お前が俺を撮ったら、その写真にお前の心が写るかもしれないな。一度、覗いてみたい気がするよ。
 …俺がお前を撮ったら?
 可愛く写るに決まってるさ。試してみようか。


 その後、試す機会もないまま数日が過ぎたある放課後、柚木は音楽科の入口で菜美に会った。
 「あっ、柚木さん」
 菜美はいつもの一眼レフカメラを大事そうに抱え、驚いた顔で柚木を見ている。柚木よりも、彼女がここにいるほうが珍しいのだが。
 「ああ、天羽さん。こんな所で会うなんて…、報道部の取材かな?」
 対して、柚木はいつものようににこやかな笑みを浮かべて答えた。彼女は報道部だけあって鋭いというか、ゴシップ魂が強いようだから、警戒しておいたほうがいい。
 「ええ、まあ。柚木さんはお帰りですか?」 
 「いや、少し練習していくつもりだよ。そうそう、コンクールの写真受け取ったよ、どうもありがとう」
 「いいえ、どういたしまして。おかげ様で、校内新聞の売れ行きも、いつもの倍以上でしたからね」
 「それは良かった。僕もコンクールに関する記事は読ませてもらったよ」
 「それは光栄です」
 「いやだな、大げさだよ」
 柚木は再び口唇に笑みを乗せる。それで話すことは尽きてしまった。
 「それじゃ、僕は失礼するよ」
 「あっ、柚木さん」
 身を翻した柚木を、菜美は呼び止める。
 「何かな?」
 「あー、えっとですね。コンクールの時は、いろいろと取材に応じて頂いて、写真も快く撮らせてもらって感謝してるんですよ」
 「それは…ありがとう」
 柚木は内心で首を傾げる。その話は終わったはずだ。それに、妙に歯切れが悪い。
 「ファンの子が見たら、飛び上がりそうな写真もありましたもんねー。報道部に写真を売って欲しいなんて言ってくる子もいたんですよ」
 「本当かい? その気持ちは嬉しいな。けれど、迷惑をかけたんじゃないのかい?」
 「いえいえ、そんなことないですよ」
 そうだろう。実際に売って、部費にしているという話を聞いたことがある。迷惑どころか、大歓迎で迎えただろう。
 「それならいいんだけど。何か僕に言いたいことがありそうに見えたから」
 さりげなく切り出す。いい加減、要領の得ない話は切り上げたかった。
 思ったとおり、菜美はかすかにぎくりとした表情をする。
 「あはは〜。分かってましたか」
 「一体、なんだい? 何か困ったことがあるなら話を聞くよ」
 「いえ、そうじゃないんですよ」
 菜美はしばらくためらう様子を見せていたが、やがて思い切ったように、鞄から封筒を取り出した。
 「ごめんなさい。思わず撮っちゃったんですけど、やっぱり良くないな〜と思うから」
 「これは写真かい?」
 「はい。いや〜、写りは我ながらいいと思うんですけど、持ってても記事にはできないし、ネガごとお渡ししますね」
 話が見えない。
 だが、困惑する柚木をよそに、菜美はすっきりしたように笑った。
 「あの子のこと、よろしくお願いしますね。その内、インタビューさせてくれると嬉しいです。それじゃっ」
 「あ、天羽さん…」
 柚木が声をかけたときには、既に菜美は普通科校舎のほうへ駆け出していた。
 なんだったんだ、一体。
 柚木は渡された封筒に目を落とす。少なくとも、ただの写真じゃないらしいというのは察しがつく。
 柚木はそっと辺りを見回して、自分に近付く人影がないのを確かめると、封筒を開いた。
 「……っ」
 柚木の顔に、一瞬隠し切れない動揺が浮かぶ。すぐに、それはいつもの表情に押し隠されたが、封筒の中身はそれだけの威力があるものだった。
 入っていたのは、ネガと写真が一枚。
 場所は森の広場のようだ。四方に植え込みの影が写っている。このアングルからして明らかな隠し撮りだ。
 そこには、笑っている香穂子が写っていて。
 そして、その前には。
 「誰だ、これは……」
 思わず呟いてしまった。
 写っていたのは柚木自身。だが、まるで知らない人間のように見えた。
 笑っている香穂子に笑い返しているその表情は、ひどく優しい。
 その視線は、他のものなど目に入らないかのように、彼女のみに注がれている。
 そこには、いつもの澄ました様子は微塵もなくて。
 柚木の頬にゆっくりと熱が立ち上る。
 自分は、こんな顔ができる人間だったろうか。これまで数え切れないくらい鏡を覗いて、写真を撮って、それでもこんな顔は見たことがない。
 いや、理由なんて、本当はすぐに分かっていた。だが、それを認めるのに、いくらか時間が必要だった。
 …俺は、あいつの前で、いつもこんな顔をしているのか?
 咄嗟に口元を手の平で覆う。
 自分の行動や表情、しぐさすらも完全にコントロールしていると思っていた。確かに、香穂子の前では気を抜いていたが、これほど無防備な顔をさらしていた事に今まで気付きもしなかった。しかも、それを天羽に見られたなど、不覚も不覚。
 何より、不覚なのは…。
 『今の先輩のほうがいいです』
 香穂子は当然、幾度となく見ているだろう。その上でそう言ったのだろう。
 ぐらり、と、まだ己が優位だと信じていたバランスが揺れるのを感じる。
 それは愉快な気分ではなかったが、揺れる感情に今は従ってみたいと思った。
 …今すぐお前に会いたくなったじゃないか。覚悟しろよ、香穂子。


<了>

 

[戻る]

勢いだけで、まとまりがないな…(^^;。
あのおまけイベント、最後の柚木先輩のセリフで
「うぎゃー」と叫んでしまいました(笑)。
まさか、王子があんな事をおっしゃるとは…!