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夜風            早川 京


 かたり。
 小さな物音がして、彼は目を覚ました。
 身を寝台から起こさずに、そのまま周囲の気配を探る。
 どうやら、外の風が窓を揺らした音だったようだ。
 外は、まだくらい。夜半過ぎといったところか。
 彼はけだるそうに身を起こすと、隣で眠っている少女の頬に手をかけ、その顔の上にかかっている薄紅の髪を、そっと、指ですくった。
 彼は、どんな小さな物音がしても、すぐに目を覚ましてしまう。それは、長い間に身についてしまった習性。
 しかし、彼と同じ仕事をはじめてまだ間もない彼女は、こうやってその身に彼が触れることがあっても、目を覚ますことはない。
 先刻まで、彼の腕の中で艶めいた声を上げていた少女の寝顔は、未だどこかあどけない。
 しかし、毛布から少しはみ出した彼女の手には、彼の許に来てから出来た傷と、マメの跡が見える。彼女を抱くたびに、その白い肌に新しい傷がついているのに気付く。
 後悔、していないだろうか。彼女は。
 自分の許に来たことを。
 半ば、さらうように連れて来て、光の当たらない世界に引き込んだ。
 確かに最初は、次期聖乙女の可能性の高かった彼女を、あわよくば利用するつもりだった。王からも、才能がありそうだったら、近衛に入れてしまって良いとの許しを得ていた。
 しかし、本当の理由は違う。
 側にいて欲しかったからだ。
 女が欲しいだけだったら、別に不自由はしない。
 恋愛感情に近いものを抱いたことも、ない訳ではない。
 だが、彼女に対して抱いた気持ちは、今まで経験したこともないほど、強いものだった。
 義父の跡目を、ムワヴィワの家を継いだときから、もう自分には縁のないものと思っていた感情だった。
 彼女が欲しかった。
 聖乙女にするどころか、誰にも渡したくなかった。
 だから、再三の忠告にもかかわらず、自分に会いに来た彼女に告げた。
  「誰が来ようと離さない」と。
 しかし、自分の許で彼女を幸せに出来るとは、とても思えなかったから。
  「お前には、我が片腕として働いたもらう」
 これから入る世界について、告げるのが精一杯だった。
 本当は、言いたかった。
 愛している、側にいて欲しい。と。
 だが、それでも彼女は自分の許へと来てくれた。
 聖乙女候補をしていたときからは想像もつかなかったであろう、厳しい訓練を、彼女は黙ってこなしていく。自分も、訓練を任せた部下も、へまをすれば彼女の命だけでは済まない仕事を覚えさせるためなので、手加減はしない。だが、彼女は一言も、泣き言も、不満も言わなかった。
 そして、聖乙女候補を辞して、彼女が自分のところへ来たその日に初めて抱いたその時から、ごく当たり前のように、彼女は自分を受け入れた。
 彼女が自分を見る目には、迷いがない。
 初めて会った時から変わらぬままの、澄んだ目をしている。
 そして言う。
 「私はレン様のものですから」と。
 だが、彼女は。
 ――――――愛して、くれているのだろうか。自分を。
 彼女の口から、その言葉を聞いたことがない。
 自分が言わないのだから、求めるのは虫が良すぎるとも思う。
 だから、少しでも彼女に自分の気持ちが伝わるように、彼女を抱く。
 この唇から、指先から、彼女への想いが伝わることを願って。
 いつか、この想いを言葉に乗せて、伝えられる日が来るのだろうか。
 伝えても、良いのだろうか。
 そして、お前は、受け入れてくれるのだろうか。
 彼女の柔らかい髪をしばらくの間指で梳いていると、少し、身じろぎをして、彼女の目がうっすらと開いた。
  「……レン、様? どうかしたんですか?」
 怪訝そうな顔で見上げてくる。
  「何でもないよ。まだ眠っていて良いから」
 そう言うと、どうしてか彼女の顔が悲しそうに歪んだ。
 髪をもてあそんでいた自分の手を、そっと握ってくる。
  「どうした? アシャン」
  「レン様、レン様は、どうして私をここへ連れてきたんですか?」
 彼女がそんなことを言うのは、初めてだった。
 驚いて返事をしないでいると、心なしか瞳を潤ませて、さらに聞いてきた。
  「私、ここに、レン様の側にいても良いんですよね?」
 握った手に力をこめて、彼女は自分を真っ直ぐ見上げてくる。
 答えても良いのだろうか。彼女に。
 この気持ちを伝えても良いだろうか。
 だが。
 「どうしてそんなことを聞くんだい?」
 ――――――側にいて欲しいから、連れて来たんだ。
 「お前が心配するようなことは、何もないから」
 ――――――愛しているから。
 言葉は、出てこない。
  「だから、ゆっくりお休み」
 彼女の震えるまつげと、唇に、そっと自分の唇を落とす。
 言えない言葉の代わりに。
 唇を離してしばらくした後、自分を見つめていた彼女が、ふわりと微笑んだ。
  「……はい」
 彼女の笑顔に、何度救われてきただろう。
 自分の側にいるようになっても、彼女の笑顔が変わることはなかった。
 だが、今の微笑みはどこか儚げなものだった。
 初めて見せた、あの表情は、どういう意味なのだろう?
 もし自分が答えることが出来たら、お前は、笑ってくれるだろうか?
 寝息を立て始めた彼女の体を抱きなおす。
  「アシャン。俺は……」

 窓の外を吹く風が、強くなってきていた。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 頬に触れる手の冷たさが気持ちいい。
 気づくと、何度も私の髪を梳いている。
 薄く目を開くと、私を見つめている黒い瞳があった。
 たぶん、私と一緒にいるときにだけ見せてくれる、優しい瞳。
 彼のどこを好きになったのかなんて、分からない。
 初めて会ったときには、たぶんもう惹かれていた。
 自分が聖乙女候補生であることも、聖乙女に恋愛は禁忌であることも承知していた。
 でも、少しでも彼の側にいたかった。もっと彼を知りたくて、かれに近づきたくて。
 だから、もう会いに来るなと言われても、自分を止められなかった。
 普通の人と違うらしいことは薄々気づいていた。
 確かに、彼の仕事を聞いたときには驚きもしたし、今までの人生をほとんど全てなくしてしまうことが怖くなかったと言えば嘘になる。
 だけど、そんな代償を払ったとしても構わないくらい彼を好きになっていた。
 彼の側にいるために仕事を覚えることは、それは大変な訓練だったけど、苦にはならなかった。
 彼の役に立てるのだから。
 だから言えるの。
 「私はレン様のものです」と。
 でも、彼は。
 ――――――――愛して、くれているの? 私を
。  彼が自分をどう思っているのか、どうして私を側に置くのか、彼の口から聞いたことはない。
 今日、任務から戻ってきた彼に久しぶりに抱かれたけれど、彼はなにも言わない。
 ただ、いつも熱いくらいの激しさで、私を抱く。
 自分はもちろん、彼しか知らないけれど、彼が女性経験豊かなことは想像に難くない。
 私は彼を愛しているから、だから抱かれる。
 だけど彼は?
 そう考えると不安でたまらなくなる。
 怪訝な顔をしているであろう私に、「何でもないよ」と彼は言う。
 そう言う彼の顔は、本当に優しい。
 だから、なおさら私の不安をあおる。
 彼の手を握りしめて、訊いてみる。
 「レン様、レン様は、どうして私をここへ連れてきたんですか?」
 ――――――――私を、どう思っていらっしゃるんですか?
 彼は不思議そうな顔をする。
 「私、ここに、レン様の側にいても良いんですよね?」
 ――――――――側に、おいて下さい。
 握った手に力を込めて、彼の瞳を見つめる。
 彼は、そっと微笑んで言う。
 「どうしてそんなことを聞くんだい? おまえが心配することは何もないから。だから、ゆっくりお休み」
 涙がついた私のまつげと、唇とに、彼の唇がそっと重ねられる。
 まるで壊れ物にさわるように、優しく、重ねられる。
 信じて良いですか? あなたを。
 ううん、信じさせて。
 あなたが私をどう思っていても、私はあなたの側にいる。
 愛しているから。
 「……はい」
 答えながら、少し笑ってみたけれど、うまく笑えただろうか。
 私は彼の手を離し、もう一度目を閉じた。
 眠りに落ちていきながら、彼が私の名を呼ぶのを聞いた気がした。
 
 窓の外では、風の音がしていた。

 2000.9.13UP

 


これを最初に読んだウチの相方のはるか氏は、第一声で「ガラにもない」と言いました。
いや、確かにガラにもないですな。レンのくせに(笑)
よく、レンでこんな話になったものです(^^;

 

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