夜の狭間で
翠 はるか
「――――…ん…」
甘やかな喘ぎ声が、月明かりしか光源のない暗い部屋で響いた。
音の元は、最低限の家具しかない質素な部屋の奥に置かれた広いベッド。白いシーツに埋もれるようにして、男女が絡み合っている。
「あ…、レン、様ぁ……」
感極まった声が、組み敷かれた女の口から、何度もこぼれる。男の巧みな導きで、彼女は幾度となく高みへ登りつめていた。
だが、それでも満たされないとばかりに、彼女は男の腰に足を絡め、深く自分へと引き寄せようとする。
「…アシャン。そんなに足を絡められたら動けないじゃないか」
レンと呼ばれた男が、からかうような口調で彼女に囁く。彼女はその言葉にぱっと赤くなり、身体の力を抜いた。
「ふふ。可愛いな、アシャンは」
彼女の、まだ少女らしさを残した反応に、レンは目を細めて笑い、アシャンに口付ける。
「レン様、意地悪な事言わないでください」
「意地悪? どこが? 可愛いって誉めているのに」
「……もう」
アシャンがふくれて、横を向いてしまう。レンは笑った。
「すまない、アシャン」
レンは素直に詫び、再び彼女を高めるべく体を揺すり始めた。
「あ、ああ…っ」
すぐに反応して息を乱すアシャンを、レンは愛しげに見つめた。
彼女といると、笑う事がこんなにも簡単なことだなんて。
生まれた時から闇の世界に生きることを運命付けられていたレンには、彼女がもたらした自分の変化は、時に恐ろしく感じるほどの喜びだった。
二人が知り合ったのは、秘畢の丘という季節を問わず花が咲き乱れる不思議な場所でだった。
そこは、他人が入れないよう結界が張ってあって、レンが唯一気を抜ける場所だった。そこへ、アシャンが迷い込んできたのだ。レンは驚いたが、黒翠騎士団の隊長として、聖乙女候補生たる彼女の顔を当然知っていたから、聖乙女の資質かと納得していた。
実際はどういう理由だったのか、未だにはっきりしないが、そんな事はもうどうでもいい事だろう。
以来、たびたび丘を訪れるようになった彼女に、レンは恋は命取りだと分かっていても、惹かれていくのを止める事ができなかった。
不思議な感じだった。
レンが張った防衛線など、するりと飛び越えて彼の心に入り込んできた。心のどこかで、レンは彼女を探していたのかもしれない。
彼女が欲しいとレンは思った。
だが、国を守る聖乙女、その候補生たる彼女を、同じく国を守るために存在する自分が奪うなど、本来許されない事だ。
だが、欲しかった。焦がれたと言ってもいい。
そこで、レンは賭けた。
彼女を「もうここへは来るな」と突き放し、次の週にまた彼女が来たら、自分の元に連れて行く。そして、来なければ、二度と会わないと。
果たして彼女は来た。そして、素性を明かしたレンについていくと言ってくれた。
それからは、レンはもう迷わなかった。
その夜のうちに、アシャンを自邸に連れ帰り、自分のものにした。焦っていたのだと、レンは自分で分かっている。だが、そうすれば彼女が聖乙女になる事はもうなくなるから。
レンのものになったアシャンは黒翠騎士団に入り、レンの補佐についた。
同じ国を守る役目でも、国民全てに賛美される聖乙女とはかけ離れた闇の仕事。それでも、アシャンは厭わず、すぐに古い隊員からも一目置かれるほどの活躍を見せた。
今では、彼女がレンの元にいる事を公然と非難するものはいない。
……俺だけのものだ。
レンはアシャンを抱く腕に力をこめた。
「あ、痛…っ!」
アシャンが急に身じろぎした。何かと思って見てみると、アシャンは自身の左腕を見下ろしていた。
その二の腕には包帯が巻かれている。前の仕事で負った刀傷だ。まだ完治していないそれに、レンが触れてしまったようだ。
「ああ、大丈夫かい?」
「ええ…。突然だったから驚いただけです」
「そう…。確か、ギアールの間者とやりあった時のものだったね」
レンがその傷に、痛まない程度の軽いキスをする。
今後、この白い肌にどれだけの傷が刻まれるのだろう。
そう考えると、ちりちりとした痛みがレンの胸を焼く。分かっていた事だが。
レンがつい考え込んでしまっていると、アシャンが落ちつかなげに、もぞもぞと身じろぎした。
「レン様、あのぅ…。ここで止められると、私、その……」
赤くなりながら、アシャンがレンの髪をせがむように引っ張った。
レンは苦笑した。
「アシャンは、いつの間にそんないやらしい子になったのかな?」
そうしたのは、もちろんレンなのだけど。
「もう、レン様……」
「しっ。黙って」
レンは彼女の求めるまま、深く身を沈め、彼女の身体に口唇を落としていった。
アシャンの肌に、紅い所有の印をつけていく。細い首筋にも、やわらかな胸にも。
全てが自分のものだと、まるで見せつけるように。
数十分後、二人は情事でほてった身体を夜気にさらしていた。
アシャンは満ち足りた表情で、レンの胸に身体を預けている。レンはアシャンの長い髪を手で梳いてやりながら、身体に残った余韻を楽しんでいた。
その手の動きが、ふと止まる。
唐突な動きにアシャンが不思議に思ってレンを見ると、レンはアシャンの二の腕の傷を見ていた。
アシャンが明るく笑ってみせる。
「レン様、こんな傷大した事ないですよ」
「ああ……」
頷きながら、レンはその傷に口付けた。
「レン様……」
「…アシャン。後悔しているか、俺と共に来た事を」
「いいえ、レン様」
レンの問いに、アシャンは即答した。
「俺といれば、こんな事は数限りなく起きる。それでも?」
「はい」
アシャンはまた即答した。その瞳に迷いはない。
「そうか……」
レンはアシャンを抱き寄せ、深く口接けた。
「……ねえ、レン様?」
口唇が離れた後、アシャンがレンの瞳を覗き込みながら口を開いた。
「なんだ?」
「私が”後悔してる”って言ったら、私を手放すつもりだったんですか?」
「いや。もう一度、お前をこのベッドに沈めて、俺なしではいられなくしようと思っていた」
その返答に、アシャンはきょとんと目を見開いた後、くすくすと笑い出した。
「レン様って、仕事以外では結構子供っぽいとこありますよね」
ダダをこねる子供みたい、とアシャンは屈託のない笑顔で言う。レンもそれに笑い返した。
「……俺は後悔していないからな」
お前を光の当たる世界から引きずり出した事を。
「…ええ。私も後悔してません」
貴方以外のものを全て捨てる事になったけれど。
二人は見つめ合った。
これほど魂の惹かれあう相手と、何故離れていられるだろう。
確かに、互いを見守るだけで満たされる深い愛というのも存在する。だが、自分たちの愛はそれではない。
自分たちが死ぬのは戦場か、あるいは牢屋。いずれにせよ、まともな場所ではないだろう。ベッドの上で死ねるなど期待していない。だから、愛しい人がどこで果てようとも、すぐに見つけられるように追いかけていたい。
「レン様……」
アシャンがレンの腕を掴み、そっとその身体を引き寄せた。
二人は再びベッドの中で互いの体温を感じ取る事に集中し始めた。
<了>
ふと、情事の後のレンとアシャンのやり取りが浮かんで(^^;、一気に書き上げました。
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