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彼女と母と果物ナイフ

                               早川 京


 その日深緑聖騎士団長マハト・アル=シェイバニは、いつものように帰宅した。
 独身時代マハトは騎卿宮の自室に寝泊りしていたのだが、元聖乙女候補生であり、現在は聖乙女の補佐として聖女宮に勤めている妻と結婚してからは、彼は広い王宮内の片隅にある官舎に居を構えている。
 家の明かりが見える辺りまで来ると、どうやら今日は妻の方が先に帰ってきているらしく、窓から暖かい明かりがこぼれていた。
 この明かりを見ると、自分を待っていてくれる者がいるのだと、マハトは胸が少し熱くなったりする。結婚して良かったと思う一瞬である。
「ただいま帰りました、ミュイール」
 しかし、そんなほのぼのと暖かい気持ちでドアを開いて我が家に入った彼の目に映ったのは、蒼い瞳に穏やかな笑みを浮かべた妻の姿ではなかった。
「おや、おかえりマハト。お勤めご苦労さま」
 居間のソファにゆったりと腰掛けて、彼を出迎えたのは、マハトの母だった。
「母上!? どうしたのですか? 何かあったのですか!?」
「おや、息子の家に行くのにいちいち理由なんているのかい?」
 驚く息子を尻目に、マハトの母はしれっと言った。
「いえ、そういう訳ではないのですが…。いらっしゃるなら、言ってくださればお迎えに上がりましたのに」
 言葉に詰まった息子を見て母は、実際の年齢よりもはるかに若くみえる顔をにっこりとほころばせた。
「まあいいじゃないの。久しぶりにミュイールの顔も見たくなったんでね」
「はあ……」
 自分と同じ褐色の肌と緑の瞳、黒い髪のジャハン族族長夫人を見ながら、マハトはため息をついた。
 結婚したときにマハトはミュイールを故郷に連れ帰って以来、マハトの母はすっかり彼女と気が合ってしまったらしい。確かに、ミュイールにはマハトの母からよく手紙がきていた。
 だが、いくら仲が良くても、こうしていきなり訪ねて来ることはなかった。族長夫人が王都へ行くとなると、ジャハン族では一大イベントになってしまう。そうすると、必然的にマハトにも連絡が来るのだ。
 だから、ひょっこりと母親が訪ねてきているのにマハトは驚いたのだが、母は全く意に介していないようである。
 マハトが首をかしげていると、台所からミュイールが出てきた。
「あら、お帰りなさい」
 にっこりと笑って、彼女は手早く居間のテーブルを整え始めた。
「良かった、もうすぐお夕飯の用意が出来るところだったんですのよ。今日はお義母様もいらっしゃいますし、楽しいですわね」
 そう言いながら、嬉しそうにまた台所に戻っていった。
 マハトは彼女を追いかけて台所に行くと、小声で尋ねる。
「母上は、いついらしてたんですか?」
「わたくしが帰ってきたら、すぐでしたわ。びっくりしましたけど、久しぶりにお会いできましたし、あなたが帰ってくるまで色々とおしゃべりして楽しかったんですのよ」
 にっこり笑って答える妻に、マハトは怪訝な顔で聞いた。
「母上は、何か仰ってはいなかったのですか?」
 ミュイールは首をかしげた。
「さあ。わたくしは何も聞いてはいませんわ。まあ、いつものように仰々しい手順がなかった分、生き生きとされてましたけど。何か?」
「いいえ、何も聞いていなければそれで良いのですが……」
 そう言うと、母の好物である梨の皮をむき出したミュイールを台所に残して、マハトは居間へと戻った。
「母上」
 そして彼は、居間ですっかりくつろいで書物に目を落としている母親に声をかけた。
「本当のところ、何があったのですか?」
 母親の思わぬ行動は、まさか故郷で何かあったのではないかとマハトを不安にさせていた。母親の顔を見据えて、彼は尋ねた。
 真剣な彼の声に、マハトの母は緑の目をすっと細めて彼を見上げる。
「今度という今度は、愛想が尽きたのよ」
「……は?」
 母親の思わぬ返答に、マハトは一瞬何のことだか分からなかった。
『だから、あの人の浮気癖には、もう愛想が尽きたって言ったのよ』
 興奮しているのか、彼女はアルバレア公用語ではなく、ジャハンの言葉に戻って言った。
『……また、父上ですか』
 マハトはがっくりと肩を落とした。彼もつられてジャハン語になる。
『……もしかして、それで家出してこられたのですか?』
 恐る恐る聞く息子に、母は大きく頷いた。
『もう、我慢できるもんですか。こんな有能で若くて美人の妻を差し置いて、色気ばっかりの女に走りたがるんだから。なあにが、俺にはお前だけだ、よ。本当に口ばっかりなんだから!』
 ここぞとばかりにマハトの父親であり、彼女の夫であるジャハン族族長への不満を、マハトの母は話し始めた。
 どうやら母は、父とけんかをしてその勢いでジャハン地方を飛び出して、ミュイールに会いに来たらしい。
 確かにマハトは、彼女の言い分も分からないでもない。マハトの父と母は、幼馴染の許婚どうしであったらしいが、それにもかかわらずマハトの父は女癖が悪かった。
 マハトの母と結婚する前から、浮気癖があったらしい。
 「この世の半分は女なんだ。楽しまなくてどうする」と、子供だったマハトに言ったこともある。もし、彼が王都の貴族であと20年若かったら、ロテールといいライバルになったのではないだろうか。
 ちなみに、昔はジャハン族では一夫多妻制をとっていた。他部族との抗争が絶えず、男が女を守るという習慣があったからだという。
 しかし、一家に妻が何人もいるということは、母親がたくさんいるということで、その子供もたくさんいるということになる。つまり、後継ぎを決めるのが難しくなるのだ。
 アルバレアの統治下に入ったジャハンでは、他部族との抗争の必要がなくなった。そして、アルバレアに与しながらも部族の独立性を保つためには、内部の余計な抗争は命取りになりかねない。そして、お家騒動を出来るだけなくすためにも、だんだんと一夫多妻制をとることはなくなっていったのだ。
 もちろんマハトの父も、妻はマハトの母ひとりである。
 しかし、未だにジャハンの男は女性関係が多いことは男の甲斐性であるとして、後ろめたく思わない考え方をする者が多い。マハトの父もそういう考え方をする一人である。マハトは両親の騒動を見て育ったので、女性関係は面倒だとしか思わなかったのだが。
 ただ、マハトの母は、そういう事に関しては父とは逆の考えを持っているので、毎度毎度、父が戻ってくるまで大騒動になるのである。
 しかし、そうは言ってもマハトの父も彼の妻をそれなりに大切に思っているらしく、色々と外で遊び歩いても、結局は母のところへ帰ってくる。何だかんだといいながら、長年連れ添っている夫婦なのだ。もちろん、ジャハン族の族長一族としては、離婚などされたら困るのだろうが。
 ゆえに子供の頃からマハトは、両親の喧嘩には関わらないに越したことはないと学んでいた。
 今回母は勢いで家出してきたらしいが、いつまでも国を空けていられるような人ではないし、いつものようにほとぼりが冷めたら機嫌よく国に帰るだろう、とマハトは思った。
 だから彼は、内心辟易しながらも、母の話を半分聞き流している。
『……ってことなのよ。勝手も程があるわっ!』
 だが、話すほど興奮していく母にいいかげんうんざりしたマハトは、ため息をつきながら言った。
『そうは言ってもですね、母上。父上にも都合というものがおありなのですから。それに、ジャハンの男は元々複数の妻を養ってこそ、一人前と言われたではないですか』
『あら、お前はあの人の味方をするのかい?』
 母親の目が一層きつくなったのに、マハトは余計なことを言ったと焦りながら答えた。
『いえ、そうではなくて、父上はあくまでジャハンらしい男なのだと言ったのですよ。いつもの癖なのですから、かりかりと怒っても仕方ないではないですか。そのうちまた、ちゃんと家に戻ってこられますから、母上は泰然となさっていれば大丈夫ですよ。父上には結局、母上しかいないのだと、父上自身が良くお分かりなのですから』
 その言葉に、母はふんっ、と鼻で笑った。
『そんなこと、とうの昔に分かっているわよ。分かっていて、同じことを繰り返すから、腹が立つのよ!』
 余計に興奮してしまった母を見て、息子はしゃべるのではなかったと深く後悔した。
 結局しばらくの間、母の攻撃は息子に向かうことになる。
 ようやく一通りの言いたいことを言ってすっきりしたらしい母を居間に残し、疲れきったマハトが妻のいる台所に退散できたのは、およそ1時間後だった。
 夕食の支度はほとんど出来ていたはずなのに、彼女が出てくるのがやけに遅いとマハトが台所を覗き込むと、ミュイールは先程彼が出て行ったときのまま立っていた。
「お待たせして申し訳ありませんね。さあ、母上も落ち着かれたみたいですし、夕食にしましょう。温かいお茶を入れましょうね…」
 台所に入って、マハトが夕食の用意を整えようとすると、妻が何か呟いた。
「……の?」
「何ですか? ミュイール」
 マハトが聞き返すと、ミュイールは持っていた果物ナイフをぴたりと彼の喉元につけた。
「仕方ないって、どういうことですの?」
「はいぃっ!?」
 マハトの引きつった声が、台所に響いたのだった。

 台所で夕食の支度をしていたミュイールは、夫の心配そうな表情が気にかかっていた。
 確かに、義母が突然訪ねて来たことにはさすがにびっくりしたが、彼女の様子は自分が見た限りでは何も変わったことはなかった。彼女も何も言わなかったこともあって、きっとただ個人的に訪ねてきただけだろうと思ったのだ。
 しかしマハトの慌てぶりに、もしかしたら、とミュイールは不安になっていた。だから、居間での2人の会話に耳をすませていたのだが……。
 ジャハン語で話す2人の会話内容は、どうやらマハトの父のことらしかった。
 ミュイールは、聖乙女候補生時代にアルバレア公用語以外の言葉も多少学んでいた。だがジャハンの言葉をきちんと学んだのは、結婚してからである。マハトが少しずつ分かりやすく教えてくれるので、まだそんなに流暢に扱えないものの、彼女は大分ジャハン語を理解できるようになってきていた。
 2人とも早口で何かを言い争っているようだが、それがマハトの父の浮気癖について話しているのだと分かったときはさすがのミュイールもがっくりと肩の力が抜けた。
 それだけなら良かったのだが、マハトの言葉が彼女の耳に飛び込んできた。
『父上にも都合というものがおありなのですから』
 ―――えっ?
 彼が何か妙なことを言っているような気がして、ミュイールはもう一度良く聞き取ろうと耳をすませた。
『…父上はあくまでジャハンらしい男なのだと言ったのですよ。……仕方ないではないですか……』
 ジャハン族の一夫多妻制については、ミュイールも知っていた。その名残ともいえる考え方も。そして、その後に続く二人の会話を聞いていれば、マハトが決して父親の味方のみをしていた訳ではないと気付いただろう。
 しかし、早口のジャハン語が良く聞き取れなかった上に、マハトのその言葉はミュイールの頭から冷静さを奪うのには充分だった。
 ―――ジャハンの男なら、妻を差し置いて浮気をしても、仕方ないですってぇ!?
 彼女は、皮をむいていた梨をドンと音を立ててその場に置くと、持っていた果物ナイフを握りしめたのだった。

「ミュ、ミュイールっ! どうしたのですか!? 落ち着いてください」
 喉元に刃物を突きつけられて、思わずマハトは後ろにのけぞった。
 聖乙女候補生として訓練を積んだだけあって、ミュイールの狙いは正確である。ぴたりと獲物をとらえる目は、聖乙女候補生時代の実践訓練時そのものだった。彼女の剣の腕前を思い出して、マハトは思わず背筋が寒くなる。
 しかし、ミュイールはマハトの言葉に耳を貸さず、狙いを定めたままもう一度尋ねた。
「ですから、ジャハンの男なら、浮気をしても仕方ないというのは、どういうことだと聞いたのですわ」
 すっと細めてマハトを見上げる彼女の目は、絶対に言い逃れは許さないと言っている。
 その迫力にマハトは、彼女が聖乙女になったらさぞ頼もしい聖乙女になっただろうと、場違いなことを考えてしまった。
「聞いているんですの?」
 ミュイールの言葉に、マハトは我にかえる。
「あ、その、誤解です、ミュイール。ですから、その物騒な刃物を離してください」
「いいえっ! あなたからのちゃんとした説明を聞くまで、離しません!」
 慌てたマハトの態度に、ますます怒りの色を濃くしたらしいミュイールを見て、マハトは思わず天を仰ぐ。
「さあ、浮気の何がどう誤解なんですかっ!」
 ミュイールはマハトの胸倉を掴んで、ナイフの切っ先をさらに彼の首筋へと近づけた。
「いえ、浮気が誤解なのではなくて……」
「じゃあ、やっぱり誤解ではないのですねっ!」
 台所の壁に押し付けられた態勢のまま、ナイフに気を取られながらしどろもどろに答えようとするマハトの様子に、ミュイールは勝手に納得して言った。
「ああそういえば、わたくしがまだ聖乙女候補生だったときも、わたくしという者がありながらアシャンと仲良くしたりしていましたものね…。だからあなたは、浮気してもジャハンの男なら仕方ないなどと言えるのですわね」
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ! どうしてここで昔のことが出てくるんですか!?」
 ミュイールのぶっ飛んだ思考に、マハトは慌てて反論を試みる。
 ちなみに、口調はおとなしくなってはいるが、果物ナイフの切っ先は、相変わらずぴたりと狙いをつけたままである。
「まあ!? あなたは昔のことだと仰るのですか?」
「いえ、そうではなくて、あれは誤解だったではありませんか!!」
「そう言って、また誤魔化すんですのね! ああ、あなたもお義父様と同じですのね…」
 そう言いながら、ミュイールは少し俯いて、左手で口元を覆った。
 しつこいようだが、右手は相変わらず果物ナイフでマハトに狙いをつけたままである。
「私は父上とは違いますっ! だから、どうしてそうなるんですか」 
 ―――さて、どうしましょうか……。
 とりあえず、どうしたら彼女が冷静になって果物ナイフを引っ込めてくれるかと考えながら、マハトは内心でため息をついた。
 刃物を持っている分、母よりも扱いが厄介になってしまった妻を前にして、マハトは、やっぱり両親の喧嘩には関わるとろくなことはないと後悔した。
 そして、今後ミュイールを怒らせるのは極力避けようと、心に決めたのだった。
「……分かりましたわ」
 ミュイールの落ち着いた声にマハトが下を向くと、いつの間にか彼女は果物ナイフをマハトの首筋から離している。
 ナイフを置いたミュイールを見て少しは冷静になったのかとマハトが内心ほっとしていると、ミュイールは言った。
「そういうことでしたら、わたくしも妻として引き下がるわけにはまいりませんわ」
「ですから、引き下がるも何もないので……ミュ、ミュイール!?」
 妻の様子がおかしいのに、マハトはようやく気付いた。
「ちょっと、ミュイール! 何を考えているのですか!?」
 彼女は指を組んで、呪文の詠唱を始めようとしていたのだ。
「浮気などされる前に、わたくしで始末をつけますわ!」
「ミュイール! それは……、ラ・ルーナじゃありませんか! ちょ、ちょっと、おやめなさいっ、ミュイぃルうぅぅ!!!」

 その日、マハトの家の方角から妙な悲鳴が聞こえてきたと、騎卿宮で仕事をしていた蒼流聖騎士団長が後に話している。


 マハトがその日の夕食に無事ありつけたかどうかは、定かでない。

2001.3.1 UP

 

 


 マハトの母親といい、彼らの家の間取りといい、なんだか妙に庶民的です(笑)
 共働きの騎士団長夫妻なんだから、家政婦のひとりもいて良いのではないかと、書きあがってから思いました。
 まあ、気にしない、気にしない(笑)

 

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