満月
早川 京
―――――馬鹿にしている。
結婚させられそうだから、恋人になって、一緒に故郷へ来て欲しい。
目の前の青年は言った。
彼がそう言うべき相手は自分ではない。
若葉色の瞳と緋色の髪をした笑顔の明るい友人。
彼女のはずだ。
なのにどうして自分なのか。
―――――こんなことってないわ。
さすがに妙なことを頼んだと気恥ずかしいのだろう。いつもの穏やかな笑顔が、少し困ったようなあいまいな表情になっている。
その彼の顔を見ていると、怒りが込み上げてくる。
彼女は、自分の返事を待っている青年の、深い緑の目をきっ、とにらみ返した。
「それを頼む相手は、わたくしではありませんでしょう、マハト様」
えっ、と彼の表情が変わる。
「何を言っているのですか? ミュイール」
自分の言った意味が分かっていないらしい彼に、彼女は本気で腹を立てた。
「ですから、そういうことはアシャンに言うべきだと申し上げたのですわ。アシャンとのことを知らないとでも思っていらっしゃるのですか?」
ミュイールは机の上の荷物を抱え上げた。
「…それをわたくしに頼むなんて、失礼にも程がありますわ!」
そう言うなり、くるりときびすを返して、自分を引き止めようとするマハトの声も聞かず、彼女は博識館から走り出ていった。
「ミュイール…」
後には困ったような顔のマハトだけが残された。
なんて失礼な人なんだろう。
聖女宮の自分の部屋に戻るなり、ミュイールは自分のベッドに突っ伏した。
想いあう相手がいるくせに、自分に恋人のふりをしてくれだなんて、よくも頼めたものだと思う。
それも、どうしてよりによって自分なのか。
ファナだっているではないか。
自分のほうが、聞き分けが良いとでも思われたのだろうか。
「本当…馬鹿にしているわ」
そう、つぶやく。
せめて、ファナに頼んでくれれば良かったのに。
彼の恋人のふりなんて、できるわけがない。
「ひどい人…」
しかし、その彼をどうして自分はこれほど想ってしまうのか。
涙があふれる。
友人の代役を頼む彼の態度が、彼の心が自分に向いていないことが。
悲しくて、腹立たしくて、悔しくて。
それでもなお、彼を好きだと思ってしまう自分が。
やるせなくて、情けなくて。
「ばかみたいだわ…」
ミュイールは、ベッドにうつ伏せになったまま、シーツを握り締めて、肩をふるわせていた。
797年7月の終わり近くの日曜日。
ミュイール=メルロワーズは、森林公園の中を一人歩いていた。
まぶしい日差しを避けて、木陰に入った彼女は気にもたれかかって、小さくため息をついた。
彼女は一昨日、哨戒任務から戻ってきたばかりだった。
今回は蒼流聖騎士団に同行し、魔物の退治などにあたっていた。
哨戒任務に同行するのは2回目である。前回はさしたる戦闘もなく無事に済んだのだが、今回はそうはいかなかった。前聖乙女マリアの力が日に日に衰えていっているためか、訪れた辺境地域には予想よりも多くの魔物が住みついていたのだ。
蒼流騎士たちはそれを手際良く退治していった。
ミュイールは一生懸命補助魔法をかけて彼らを助けようとする。しかし、魔物は意外にしぶとかった。そして、まだ実戦に不慣れな彼女の魔法はうまく発動せず、騎士たちは魔物に囲まれてしまった。
苦戦の末、蒼流聖騎士団長カイン=ゴートランドが放った攻撃魔法「テスタメント」で何とか敵を一掃できたものの、蒼流聖騎士団の被った痛手は大きかった。
王都へ帰還する前の夜、カインはミュイールのテントを訪れた。
「魔法の訓練が足りないようだな。戦場に出たとき使えないようでは意味がないぞ。死なないように工夫しろ」
ではな、と言って去っていく彼の後ろ姿を、ミュイールは唇をかみしめて見つめていた。
彼女が王都に戻ってきた頃、同じ候補生のファナとアシャンも同様の哨戒任務から帰ってきたところだった。そして、燐光聖騎士団に同行していたアシャンティ=リィスの活躍を燐光聖騎士団長ロテール・アルヌルーフ=リング・テムコ・ヴォルトがほめているのが聞こえた。
情けなかった。
聖乙女候補生になる前は、彼女は王立学院の魔法学科にいた。勉強は好きだったし、それなりに優秀な成績を修めているつもりだった。
しかし、聖乙女候補生になって、上には上がいるということを思い知らされた。
貴族令嬢の気品と誇り高さを自然に身にまとい、なんでもそつなくこなしていくファナ=デ・ラ・ウィーヴェル・ライエンダイク。地方出身者ながら、その資質の高さを存分に発揮している、明るく闊達なアシャンティ=リィス。
彼女たちはそれぞれに努力し、一定の成績をあげていた。
それに比べて、自分はどうだろう。
活発で気の強い彼女たちと違って、割合おっとりとした性格のミュイールは、よく周囲から、よくできる、しっかりした子だという評価をうけた。
聖乙女候補生となった現在ではなおさら、周囲の評価は高いものである。
しかし、彼女は自分自信に対して自信を持つことが出来なかった。
魔法学科の頃から勉強にはげんできた。聖乙女候補生に選ばれてからも、その名に恥じないよう努力を続けている。
でも、友人たちにはかなわない。
心の奥底で、彼女は劣等感に近い感情を覚えていた。
そこへ今回の哨戒任務のありさまである。
ミュイールは完全に自信をなくしていた。
気持ちが沈んだとき、彼女は、よく森林公園にくる。
植物たちの優しいざわめきが、つかれた心を休めてくれるから。
ミュイールは木陰に腰を下ろし、木に寄りかかって目を閉じた。
「おや、ミュイール。こんにちは」
背後から声がしてミュイールは慌てて目を開いた。
「もしかして起こしてしまいましたか? 申し訳ありません」
木の後ろから顔をのぞかせたのは、深緑聖騎士団長マハト=アル・シェイバニだった。
「いいえ、ただ目を閉じていただけですから」
そう言って立ち上がろうとするミュイールを手で制してから、マハトは彼女の隣に座り込んだ。
濡れたようなつやのある黒髪と、深い緑の瞳が間近にあるのに、ミュイールは少し戸惑った。
そんな彼女の様子に気づく風もなく、マハトは穏やかな微笑をミュイールに向けた。
「ここは、気持ちが良いですからね」
「はい。木や草のざわめきが心を休ませてくれますもの。マハト様はお散歩ですか?」
「ええ。今日みたいな日は植物たちが生き生きしていますから、ついここへ来たくなってしまうんですよ」
穏やかな笑顔がミュイールを気遣う表情へと変わる。
「でもあなたは元気がありませんね…」
顔に出ているのか、とミュイールはショックを受ける。
「今回の哨戒任務の事ですか?」
ミュイールの青い瞳の色が暗くなり、彼女は顔を伏せる。
「わたくし、才能がないのでしょうか…」
ぽつりと言う彼女の顔をのぞき込んでマハトは言った。
「そんなことはありませんよ。才能があるから、聖乙女候補生に選ばれたのですよ」
「でも…! わたくしは、ファナやアシャンのようには出来ません…」
泣き出しそうな目でマハトを見るミュイールに彼は優しく微笑んだ。
「人それぞれのペースというものはあります。大丈夫。少しずつ、ゆっくりとあせらず上達していけば良いのですから。それにあなたの努力は私がよく知っていますよ。博識館や学科棟でよく遅くまで勉強していらっしゃいますね」
そういえば、自習のときによくマハトに会っていたことをミュイールは思い出した。
「大器晩成、とも言うでしょう?」
にっこりといつもの穏やかな笑みをうかべて彼は続ける。
「あなたならきっとよい聖乙女になれますよ。私でよかったら力になりますから、がんばって下さい。私はいつでもあなたを見ていますから」
思わぬ言葉にミュイールの頬が薄く色づく。
「ありがとうございます、マハト様。少し元気が出ました」
そして彼女は、今日初めての笑顔をマハトに向けた。
「それはよかった。私もうれしいですね」
微笑む彼の顔をミュイールは暖かい気持ちで見ていた。
それからミュイールは一層の努力を重ね、徐々に成績をあげていった。苦手の魔術も上位の成績をとるまでになっていた。
そして、あの日以来、ミュイールはマハトと休日を過ごすことが多くなった。
2人で洞窟へ薬草を採りに行ったり、紅葉の季節には一緒に紅葉狩りをしたりしたこともあった。
2人は色々な話をした。
日常の勉強だけでなく、互いの子供の頃の話や、家族の話。マハトの友人である、赤炎聖騎士団長との思い出話など。
マハトはその出自の特殊性からか、普段自分のことは話したがらない。「自分のことを話すのは苦手なのですよ」そう言っていたと、ミュイールはアシャンから聞いていた。
しかし、自分にはそういった彼自身に関わることをよく話してくれる。ミュイールにはそれが嬉しかった。
マハトといると心が暖かくなる。
彼と過ごす時間はミュイールにとってかけがえのない心の支えとなった。そして、努力を続けた彼女の能力は日々高まっていった。
冬を迎える頃には他の2人の候補生を追い越し、次期聖乙女は彼女であろうとささやかれるほどになっていたのだ。
マハトの態度が変わったのはそのころからだった。
休日に誘いに行くと、
「あなたは聖乙女候補生なのですよ。自覚してください」
とたしなめられ、断わられることが多くなった。
それでも、学科を習いに行くと嬉しそうに教えてくれる。
最初は訳が分からなかった。
聖乙女に恋は禁忌、能力の衰えにつながる。それは候補生である自分たちも同じことである。
だから、彼は心配になったのだろうか?
責任感の強い人だから…。
しかし、マハトとよく一緒にいるようになってからミュイールの能力は上がっていったのだ。
彼の心配は、取り越し苦労のような気もしていた。
だが、彼女は休日街でアシャンと連れ立って歩くマハトをたまに見かけるようになった。
―――――まさか、そういうことだったの?
何故、彼が自分と出かけたがらないのか。
ミュイールには分かってしまったように思えた。
―――――よりによって、アシャンだなんて…。
緋色の髪の友人。よく笑い、よく泣き、ころころと表情の変わる明るい女の子。そして優しい彼女が、ミュイールは大好きだった。同じ聖乙女候補生でライバルとはいっても、ファナと並んで、彼女はミュイールにとってとても大切な存在だった。
しかし、マハトと歩くアシャンを見たとき彼女の胸はぎゅっと痛んだ。同時に自分の心の中にどす黒い感情がうずまくのをミュイールは感じた。そして、それが嫉妬と呼ばれるものであることに彼女は気付いた。
そのときミュイールは、マハトに恋をしていたことを初めて自覚した。
それ以来、ミュイールはマハトと出かけようとはしなくなった。
しかし、それ以外はマハトに対して特別な態度を取ることもなかった。
普通に挨拶もするし、特別授業もきちんと受ける。
ただ時々、目を赤くした彼女が見られるようになった。
ファナとアシャンはどこか様子の変わった彼女をあれこれ心配した。しかし、ミュイールは、
「別に何もありませんわ。大丈夫よ」
と、いつもの柔らかい微笑をうかべるだけだった。
そして、聖乙女試験が始まって、2度目の春がやって来ようとしていた。
翌朝ミュイールは、泣きはらした目を水で冷やして、両手で顔をはたいた。
しっかりしなきゃ。またアシャンたちが心配するわ。
鏡の前で自分を励ましてみる。
―――――マハト様、明日にでも出発するって仰ってたわね。
彼は、故郷から至急帰って来るように言われているそうだった。
アシャンに伝えなければ。きっと彼は1人で行ってしまうだろう。聖乙女としての将来ある彼女を思って、身を引くに違いない。
彼はそういう人だから。
自分のせいで大切な人の未来を奪いたくないと。
でも、それは自分ではない。
そう思うと、ミュイールはまた涙が出そうになった。唇をかみしめて必死でこらえる。
夕べ一晩考えて決めた。
聖乙女になろうと。
能力的には申し分ないとマリア様からは言われている。
ただ、ミュイールはそれだけで決めたのではなかった。
マハトがいたから、自分はここまでがんばってこられた。
彼の側にいる存在になることはかなわない。
でも、彼と過ごした日々を切って捨ててしまうことは出来なかった。
彼が好きだから、大切に思うから。
だから、今までの想いをしっかり心に刻んで、彼女は前に進もうと決めた。
そして、もう一度両手で顔をはたくと、ミュイールは自分の部屋を出た。
マハトのことを告げたとき、アシャンは若葉色の大きな瞳をさらに見開いて驚いた。
きっと今ごろ、出発する彼を追いかけていったに違いない。
彼女の部屋の窓からは、明るい満月に照らされた宮廷広場が見える。しかし、ミュイールは外を見ようとはしなかった。
月も星も、今だけは自分を照らして欲しくなかった。
窓のカーテンを閉めたそのとき、部屋のドアをノックする音がした。
ミュイールがドアを開けると、そこにはマハトが立っていた。
―――――どこまで馬鹿にしているのかしら。
怒りのあまり、ミュイールは無言でドアを閉めようとする。するとマハトは慌てて扉をつかんでそれを止めた。
「待って下さい、ミュイール」
「離してください。アシャンに頼んで下さいと申し上げたはずですわ」
なおも強硬にドアを閉めようとすると、マハトは扉と壁の間に足を割り込ませて閉まらなくした。
「ちゃんと話を聞いて頂きたいのです」
「人の話をお聞きでないのはマハト様でしょう? どうしてわたくしがそんなことを言われなければならないのです?」
「あなたは何か誤解なさっています」
いつになく厳しい口調で言うマハトにミュイールは一瞬たじろいだ。しかし、気力をふりしぼって反論する。
「何を誤解していると仰いますの?」
「ですから、私とアシャンティは、その、あなたが思っているような関係ではないのです。私は、彼女ではなくて、」
「馬鹿にしないで下さい」
彼の言葉を遮ってミュイールは言った。目の前がくもってくるのが悔しい。
「どうしてわたくしにそんなことを仰るんですか? わたくしは聖乙女候補生です。その自覚を持てと仰ったのはマハト様でしょう? いまさら何が言いたいのですか? わたくしは、………んっ」
ミュイールの唇は、突然マハトの唇に塞がれた。
深く口付けて、マハトは彼女を折れるほどに抱きしめた。
突然のことにこわばっていたミュイールの体から力が抜けた頃、マハトは彼女の唇を離した。
そのまま、マハトの深い緑色の瞳はミュイールの蒼い瞳を見つめる。
たっぷり3秒後、軽い破裂音が部屋に響いた。
ミュイールがマハトの頬を平手で打ったのだ。
「本当に失礼な方ですわね」
怒りのあまり真っ赤な顔をしている彼女の目から、透明なしずくが伝い、頬へ流れる。
「どうしてあなたはこんなことができますの?わたくしを何だと思っていらっしゃるんですか? 好きでもないくせに……!」
「私はあなたが好きです、ミュイール。ずっと前からあなたが」
マハトは静かに言う。
「嘘ですわ! だったらどうしてわたくしを避けるようになったんですの? わたくし、やっと聖乙女になるって決めたんです。あなたはアシャンを選んだけれど、わたくしはあなたのことがどうしても忘れられなくて、マハト様がいたからわたくしがんばってこられたから、マハト様が見ていて下さるって思えたから……。だから、聖乙女になろうって決めたのに、どうして今になってそういうことが言えますの? もう訳が分かりませんっ!」
ぽろぽろと涙を流しながらまくしたてるミュイールにマハトは腕を伸ばして、再びその体を引き寄せた。顔に手をかけて、そっと彼女の顔をぬぐう。
そして、真摯なまなざしを彼女に向けた。
「本当に申し訳ありません。あなたをこんなに傷つけてしまうとは思いませんでした…。私はあなたの聖乙女としての未来を奪いたくなかった。あなたがどんなに努力していたか、ずっと見ていましたから」
「じゃあ、アシャンは何なのですか?」
「あ、その、あなたの様子が気になって、時々アシャンティに話を聞いていたんですが…その後色々と彼女の用事につき合わされまして」
普段から穏やかな笑みを絶やさないマハトが、本気で困った顔をしているのをミュイールは初めて見た。
しかし、次の言葉のときにはその表情は消え、まっすぐなまなざしが彼女を捕らえる。
「でも、アシャンティに言われて気付いたのです。私はあなたを手放したくない。あなたの未来をひとつ奪ってしまうことになる。それでもあなたの側で生きたい、と」
すっかり涙がひいてしまったミュイールは、一気に顔を赤くした。
しかし、もう一度気力をふりしぼってミュイールはマハトをにらみつける。
「だったら、ちゃんとわたくしを見ていてください。いつかそう仰ったでしょう? いえ、それよりも、ちゃんとわたくしの側にいてくださらないと困ります。わたくしはマハト様のせいで未来をひとつなくしかけたんですのよ?」
「ですから、私があなたの聖乙女としての将来をなくしてしまうことになるのですよ?」
―――――ああ、もう、このトーヘンボク!
と、ミュイールは心の中でマハトを罵倒する。
「もう、どうしてマハト様は肝心なところが分かりませんの? いいですか、あなたが変なことを考えていらっしゃったから、わたくしはあなたの側で生きるという未来をなくしかけたのです!」
言ってから、ミュイールは恥ずかしそうな顔をした。
マハトはうつむいた彼女の顔を上向かせて言った。あの穏やかな微笑みをうかべながら。
「ではミュイール、今度こそちゃんと聞いて下さいね。私の故郷へ、恋人として、いえ、私の妻として来て頂けますか?」
ミュイールは、晴れやかな笑顔で応えた。
「はい、喜んで」
翌日、ミュイールは聖乙女候補を辞退し、マハトと2人で彼の故郷へと旅立っていった。
アシャンティ=リィスが次代の聖乙女に決定したのは、そのしばらく後のことである。FIN.
2000,6,1UP
なんでこうなるかな(^^;
ゲーム中で、場合によっては最初の週から、
「マハト様がわたくしに特別な感情を持って」いると言い切る人とは思えないほど
乙女なミュイールと、
にっこり笑って「尋問してみましょう♪」とか言う人とは思えないほど、ボケてるマハト。
やっぱり、甘々っていうのがいけなかったかなあ。
誰か、甘くないマハト×ミュイール書いてください(笑)。
個人的にはミュイール×マハトでも良いかも(←馬鹿)。
ところで、アシャンはマハトに何を吹きこんだのでしょう?