あなたと夕食を
早川 京
今日は久し振りに、2人で夕食が取れる。
その日、ミュイールはご機嫌で夕食の用意をしていた。
いつもなら、共働きの2人の家では、夕食の用意などは家政婦にしてもらうことが多く、たまに自分たちで用意することがあっても簡単に済ませることがほとんどである。
だが、今日は特別だ。
彼女の夫が2か月近い遠征から戻り、今日やっと残務整理から解放され、家へと帰ってくるのだ。
折しも、明日は休日である。
久し振りに彼とゆっくり夜を過ごせる。せっかくの夜なのだから、彼には美味しいものを食べて、ゆったりと過ごして欲しい。
そう思うと、ミュイールの料理にも気合いが入るのである。
そして食卓の上にほとんど用意が整った頃、彼女の夫が帰ってきた。
「ただ今戻りました、ミュイール」
「お帰りなさい、マハト。食事の支度は出来てますけど、先にお湯を使います?」
お互いの頬に軽く唇を触れさせた後、ミュイールは尋ねた。
先に身体をさっぱりして来ますからと言って微笑むと、マハトは奥の浴室へと向かう。
一日を終えて家族が揃うときの、ほんの些細な日常の一コマ。
そんな光景は本当に久し振りで、嬉しくてつい顔がほころんでしまうのをミュイールは止められないのだった。
マハトが風呂から上がってくる頃、ミュイールは彼の服を洗濯してあったことを思い出し、慌てて寝室へと取りに行った。
しかし、彼女の気付くよりも早く風呂から上がってしまっていた当の本人が、着る服を探してもう寝室にいたのだった。
「ああ、ミュイール。ちゃんと見つけましたから、大丈夫ですよ」
寝室に入ってきた妻の顔から、自分の服を取りに来たのだろうと察したマハトがにこっと笑って言う。
「…あ、そう、ですか。それなら良いですわ。」
慌てて寝室に入り、そこにいた夫の姿を見たミュイールは、少し言葉を詰まらせながら答えた。
寝室に入って真っ先に彼女の目に飛び込んできたのは、夫の上半身だったのだ。
風呂上がりのため上に服を着ておらず、鍛え上げられた筋肉が見事についているのがあからさまに分かる。
それを見て、ミュイールは何となく気恥ずかしくなり、目を少しそらしながら続けた。
「あ、それじゃあ、お夕飯にしましょう。おなか、すいたでしょう?」
妻のその言葉に、マハトはにっこりと笑った。
「そうですね。おなかも大分すいていますね」
そう言うと、突然ミュイールの腕を掴んで彼女の身体を引き寄せる。
「マハト…!?」
夫の急な行動に、ミュイールは驚いて彼の名を呼んだ。
しかし、妻の驚きなど眼中にないように、彼は半ば妻の身体を押し倒すようにして、彼女を抱きすくめる。
体重をかけられて、ミュイールは後ろに引いた自分の足にベッドの柔らかな感触を感じた。
「ですが、今日はこちらのほうが先に欲しいのですが」
「はいぃっ!?」
何が起こったのか分からないでいる間に、ミュイールはあっさりとベッドに押し倒されてしまったのだった。
そのまま、マハトの唇がミュイールのそれを塞ぐ。
ゆっくりとお互いの唇の感触を味わうような長い口接けの後、ミュイールの唇はようやく解放された。
「ちょっ…、何をするんですっ!」
少し息を乱しながら、彼女は抗議する。
だが、マハトはしれっと言った。
「接吻ですが?」
「そうではありませんわ! わたくしはお夕飯にしましょうと言ったんです。それが、どうしてこうなるんですの!?」
言いながらミュイールはベッドの上から身体を起こそうとする。しかし、マハトの体が邪魔になってなかなか起き上がることが出来ない。
「ですから、言いましたでしょう。今日はあなたが欲しいんです」
あくまで真剣な目でミュイールを見つめてマハトは言う。
その迫力に気おされながらも、なおもミュイールは反論を試みる。
「…あの、お夕飯はどうなるんですの?」
「良いですか、ミュイール」
しかしマハトは彼女の言葉を聞いているのかいないのか、彼女の上にかぶさった身体を更に上方へ押し上げて、ミュイールの顔を覗き込んだ。
「2ヶ月ぶりなんです」
「は?」
何のことか一瞬分からず、ミュイールは呆けたような返事をした。しかし、次の瞬間顔を真っ赤にして言う。
「だからと言って、何も今すぐでなくても良いではありませんかっ」
半分は真面目に、半分は照れながら、ミュイールは言った。
「いいえ」
そんなミュイールの言葉を、マハトはきっぱりと否定する。
「ミュイール、あなたは私がどんな思いで2か月も遠征に行っていたと思うのですか? もちろん私は聖騎士ですから、アルバレアのために戦っています。ですが、それはひいてはあなたを守るためです。あなたのためだと思うからこそ、長い遠征にも耐えることができるんです。あなたは私がこの2か月の間どんなにあなたに会いたくて仕方なかったのか、ご存知ですか?」
言いながらマハトは、自分の肩を掴んで起き上がろうとしていたミュイールの手を、ベッドにもう一度押し付けた。
「焦がれつづけてやっと帰ってこられたんです。それなのに、あなたはこれ以上待てというのですか?」
そう言って、彼は濡れたような緑の瞳で妻の目を捕らえる。
ミュイールはそのあまりの真剣さと恥ずかしさに、思わず目そらした。
すると、必然的に自分に覆い被さっている夫の体が目に入る。
常日ごろ剣を振るう仕事をしているために鍛え上げられた厚い胸板や、上腕二等筋。なかなか鍛えるのが難しい上腕三等筋までしっかりとついている。
がっしりとした褐色の身体を間近で見ているうちに、ミュイールは何だか頭がくらくらしてくるような気がした。
思わずその肌に触れたくなってしまうのを必死でこらえる。
(……絶対この人は、わたくしがこれに弱いって分かっているんだわ)
自分の性癖を夫に見抜かれているのが、ミュイールは悔しくて仕方ない。
実は誰にも言ったことがなかったのだが、ミュイールは無類の筋肉好きであった。
母と祖母と大勢の姉たちに囲まれて育った反動か、彼女は幼い頃から逞しい筋肉というものに憧れを抱いていた。
少女の頃に愛読していたのは東の国から輸入したという本で、特に「穂玖戸野顕」や「緒斗弧熟」が大好きだった。そしてまだ幼かった彼女は、男たちの熱い戦いに胸を躍らせていたものである。
そんな彼女であるから、騎士たちに囲まれた生活を送ることになる聖乙女候補生に選ばれたのは、まさに願ってもないことであったのだ。
哨戒任務で遠征に出かけたときなど、間近で騎士たちの鍛えられた筋肉を見るたびに、ミュイールは思わず顔がにやけてしまうのを何度も必死でこらえたものだった。
縁あって深緑聖騎士団長と結婚することになったのだが、これは別に、彼の筋肉にほれ込んだからではない。
しかし初めて彼の身体を見ることになった夜、その見事な筋肉に、ミュイールは思わず見とれてしまった。
そして、目の前にある鍛え上げられた身体に、無意識のうちに触れてしまう。
最初のうち彼女の夫はミュイールのその行動を、初めてにしては積極的だ、くらいにしか思っていなかった。しかしさすがは聖騎士である。妻が自分の身体に注ぐ視線が尋常ならざるものであることに、彼は気づいたのだった。
そして彼は、にっこりと笑った。
今のミュイールならば、その笑い方が一般人ならば「にやり」と表現すべき種類の笑い方であると分かっただろう。
しかし、当時の彼女にはまだその笑顔の意味は理解できていなかった。ただ、夫の顔を見てはっと気付き、手を引っ込めただけである。
だがそれが命取りだったのだと、後に彼女は思い知らされることになる。
以来、夫が彼女を押し倒そうとするとき、今夜のように彼女の性癖を利用するようになったのだ。
もちろん、ミュイールが誘惑に勝てないことを知っての上である。毎度毎度、同じ手に引っ掛かる自分を情けなく思いながら、彼女はやはり筋肉の誘惑には勝てないのだ。
だが、今夜は違う。
疲れて帰ってきた夫のためにと、丹精こめて夕食を用意したのだ。
せっかくの料理も、冷めてしまってはもったいない。是非美味しいうちに食べて欲しいと思うのは、この場合決してわがままではないだろう。
「…どうしたんですか、ミュイール?」
身体を小さく震わせて、きゅっと目をつむったまま動かないミュイールに、マハトは楽しそうに声をかける。
自分の反応すら楽しんでいるのだと、彼女はますます悔しくなってくる。
ミュイールはぎゅっと唇を噛みしめると、意を決して身体を起こそうとした。
「もちろん、あなたがどんな思いで帰ってきてくれたのかは充分承知していますわ。ですから尚更、わたくしはちゃんとあなたに栄養を取って休んで欲しいんです!」
しかし、彼女の華奢な身体はあっさりと押さえ込まれてしまう。そしてマハトは、あの晩と同じようににっこり笑って言った。
「私はあなたの顔を見ただけで充分元気になりましたよ。それに、あなたは我慢できそうにないように見えるのですが、本当に良いのですか?」
最後の部分を、ミュイールの耳元で囁く。
「……!!」
耳に心地よい甘い声で囁かれ、思わずミュイールは体の力が抜けてしまう。
そして隙が出来た彼女の身体にもう一度マハトは覆い被さって、その唇を再び重ねようとした。
そのとき。
ぴんぽーんと、玄関のチャイムが、場違いなほど明るい音を立てて鳴った。
一瞬、マハトの動きが止まる。
しかし、彼はあっさりと来客の呼び出しを無視した。
もう一度ゆっくりと妻の唇を求める。
と、もう一度チャイムが鳴った。しかも今度は、ドンドンと玄関の扉を叩く音までする。
「おーい、マハトぉ!! いないのかあ?」
聞きなれた声は、マハトの友人のものである。
しばらく動きを止めていたマハトだったが、やがて起き上がって上着を着たのだった。
しかしその表情は、あからさまに憮然としている。
ミュイールは、ここまではっきりと表情を表に出したマハトを久し振りに見た。
「おう、マハト。こんな遅くに悪いなあ」
来客は相変わらずの大きな声で、出迎えた主にわびた。
「いえ、ちょうど帰ってきたところでしたからね。どうしたんですか、レオン?」
そう言って、マハトはにっこりと笑った。
この場合、訪ねてきたのがレオンであったのが不運であったと、後にミュイールは思った。
ロテールやカインはそもそも自分たちの私邸を訪ねてくることはない。ジャンであったら、マハトの顔を見ただけで状況を察したことだろう。
しかし、相手はレオンだった。生来の鈍さに加えて、友人の家であるという気安さが彼の判断を誤らせた。
「いや、急ぎの書類がきちまってさ、明日の朝には仕上げなきゃならんのだが、お前に聞かないとわからないことだったんでな」
「まあ、そうですか。ああ、ここでもなんですし、良かったら夕食でもご一緒しながらにしませんか? ちょうど用意が出来たところだったんですよ」
微笑みながら白々しい台詞を吐く夫を見て、ミュイールは奥の部屋で大きくため息をついた。
そして、この最悪のタイミングで訪ねてきた青年に、心から同情したのだった。
その日レオンがシェイバニ家にいる間、うっぷんのたまったマハトの格好の餌食になったのは言うまでもない。
2001.5.24 UP
もう、アホとしか言いようがないです。
ウチのマハト&ミュイールは完全に壊れましたね(^^;ミュイールの愛読書のタイトルは、読めなくても気にしないで下さい。
読めないほうが、幸せかもしれないです(笑)要するに、ミュイールに「ご飯が先?それともお風呂?」とか言わせたかっただけですが、
途中から裏に突入すると思った方は、反省してください(笑)
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